第11話 夕暮れの教室
僕の脳は、おそらく、その処理能力の限界を超えていた。目の前には、桐谷美咲。学園という生態系において、頂点に君臨する発光生物。その彼女が、僕の机のすぐ横で、まるで初めて見る機械の設計図でも読むみたいに、真剣な眼差しで古典の教科書を睨みつけている。
何がどうしてこうなった?
数十分前の僕に、この状況を説明しても、きっと信じないだろう。そもそも、僕自身が、まだこの現実を完全には受け入れられていない。
夕暮れの教室は、異世界みたいに静かだった。窓の外から聞こえてくる野球部の掛け声や、吹奏楽部が奏でる、少しだけ音程の外れたチューニングの音だけが、ここがまだ地球であることを、かろうじて僕に教えてくれていた。
僕の机と彼女の机は、不自然にくっつけられている。その距離、約三十センチ。パーソナルスペースという概念が、憲法で保障されているべきだと、僕は今、本気で思っている。彼女の体温が、熱伝導でじわりと伝わってくるような気がして、僕は自分の体の右半身だけが、沸騰してしまいそうだった。
シャープペンシルを握る僕の手は、じっとりと汗をかいている。鼻腔をくすぐるのは、チョークの粉と、埃っぽいカーテンの匂い。そして、それに混じる、彼女から漂ってくる、清潔で、どこか果物みたいな甘い香り。嗅覚からの情報量が多すぎて、僕の脳の言語中枢は、ほとんど機能不全に陥っていた。
「……で、この『る』は、どうして完了の助動詞だって分かるの?」
不意に、彼女が顔を上げて、僕に尋ねた。その瞳は、彼女の美しさが一種の戦略兵器であるとすれば、その核弾頭に相当する部分だった。そのあまりに純粋な光沢と、寸分の狂いもなく配置された完璧な造形は、直視すれば精神が汚染される危険物として、法律で規制されるべきだ。
僕は、その視線から逃れるように、教科書へと目を落とした。
「あ、ああ、それは、だな。已然形接続だからだ。その前の『たれ』が、形容動詞タリ活用の已然形だから、その下にくる『る』は、完了の助動詞『り』の連体形になる、というルールで……」
僕の口から、自分でも驚くほど、すらすらと言葉が出てくる。パニック状態に陥った僕の脳が、唯一の逃げ道として、この無機質な文法解説へと、全リソースを振り分けた結果だった。
「なるほど」
彼女は、こくりと小さく頷くと、僕が示した箇所に、几帳面な文字でメモを書き込み始めた。その真剣な横顔を見ていると、僕の心臓は、まるで迷惑な隣人みたいに、ドクドクと大きな音を立てる。頼むから静かにしてくれ。彼女に聞こえてしまったら、どうするんだ。
それから、どれくらいの時間が経っただろうか。僕の、暴走したCPUが叩き出すような、超高速の文法解説。そして、彼女の、スポンジが水を吸うような、驚異的な吸収力。僕たちの間に会話らしい会話はなかったが、その作業は、奇妙なリズム感を持って、黙々と進んでいった。
僕が、一つの単元の説明を終えた時だった。
「……黒木くん」
彼女が、ぽつりと僕の名前を呼んだ。
「君、教えるの上手いね」
それは、何の計算も、悪戯心も含まれていない、純粋で、ストレートな称賛の言葉だった。その言葉が、僕の鼓膜に届いた瞬間。僕の脳内で、何かが、プツン、と切れる音がした。これまで必死に稼働していた言語中枢が、完全にシステムをシャットダウンしたのだ。僕は、口を半開きにしたまま、ただ、彼女の顔を呆然と見つめることしかできなかった。
人に、褒められる。特に、クラスの中心にいるような人間から、こんなふうに、まっすぐな好意を向けられる。僕の人生において、それは、教科書に載っていない、全く未知の文法だった。
「え、何、その顔」
僕のフリーズした様子を見て、彼女は、きょとんとした顔をしている。その表情が、また、僕の脳の処理能力を、さらに圧迫していく。
その時だった。校内に、下校時刻を告げる、物悲しいチャイムの音が響き渡った。その音は、まるで魔法を解く合図みたいに、僕たちを我に返らせた。
「あ、もうこんな時間」
彼女は、慌てて参考書やノートを鞄にしまい始めた。僕もまた、自分の机を、元の場所へと引きずって戻す。教室には、また、いつもの、あの遠い距離が戻ってきた。
今日の、この奇妙な出来事は、これで終わりだ。僕は、安堵と、そして、ほんの少しだけの、正体不明の寂しさを感じていた。
「じゃあ、また明日」
僕が、そう言って帰り支度を終えようとした時だった。彼女は、教室の出口の前で立ち止まると、何かを躊躇うように、しばらく黙り込んでいた。そして、意を決したように、僕の方を振り返った。
その顔は、少しだけ、赤いような気がした。夕日のせいかもしれない。
「……あのさ」
「なんだ?」
「明日も、その……お願い、できるかな?」
それは、これまでの彼女からは、到底、想像もできないような、か細く、そして、少しだけ、恥じらいを含んだ、「お願い」の響きを持っていた。
僕に、断るという選択肢は、残されていなかった。そして、僕たちの、奇妙な日課が始まった。
火曜日も、水曜日も、木曜日も。最後のチャイムが鳴り終わり、教室から一人、また一人と生徒が去っていく。その喧騒が完全に消え去り、世界に僕と彼女の二人だけが残されたかのような錯覚に陥る頃。
僕の机が、ガタン、と音を立てて、彼女の机の横へと移動する。僕の平穏だったはずの放課後は、夕日のオレンジ色と、彼女から漂う甘い匂い、そして、古典文法の無機質な響きによって、完全に塗り替えられてしまった。
僕の、秘密の時間が、始まった。
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