第10話 ヒミツの補修

 図書室の重い扉を、まるで罪人が独房の扉を閉めるみたいに、静かに閉めた後も、僕の心臓はまだ、破裂しそうなほど速いリズムを刻んでいた。自分の取った、あのあまりに不自然で、あまりにわざとらしい行動。それを頭の中で何度もスローモーションで再生するたびに、僕は激しい自己嫌悪の波に襲われた。


 なぜ、あんな馬鹿な真似をしてしまったのだろう。

 参考書を、床に落とす? 静寂が支配する、あの神聖な空間で? 我ながら、信じられないくらい稚拙で、滑稽なパフォーマンスだった。ただ、無視すればよかったのだ。それが、傍観者である僕の、最も正しく、そして最も得意とする行動だったはずだ。そうすれば、僕の平穏は、誰にも脅かされることなく守られたというのに。


 桐谷美咲の、あの眠たげな瞳に、僕の奇行は一体、どう映ったのだろうか。

 きっと、気味の悪いやつだと思われたに違いない。『なんで黒木くんが、あんなところに?』『なんで、あんな大きな音を立てたの?』。そんな疑問符が、今頃、彼女の頭の中を飛び交っていることだろう。そして、最終的には、『やっぱり、関わらない方がいい、変な人だ』という結論にたどり着くのだ。


 明日から、一体どんな顔をして彼女と会えばいい? これまでの、あの奇妙な緊張感をはらんだ関係性すら、僕のこの愚かな行動によって、完全に崩れ去ってしまったのかもしれない。

 僕は、一刻も早く家に帰って、この気まずい記憶を、熱いシャワーと一緒に洗い流してしまいたかった。そう、これは忘れるべき記憶だ。僕は、逃げるようにして、夕暮れの誰もいない廊下を、昇降口へと向かって足を速めた。


 昇降口は、すでにほとんどの生徒が帰宅した後で、がらんとしていた。窓から差し込む西日が、下駄箱の列に長い影を落とし、空気中を舞う埃を金色に照らし出している。その光景は、まるで世界の終わりみたいに、静かで、そしてどこか物悲しかった。


 僕は、自分の下駄箱の前で立ち止まると、深く、深呼吸を一つした。そして、この忌まわしい一日を終わらせるための最後の儀式として、上履きを脱ぎ、革靴へと足を滑り込ませた。

 まさに、その時だった。


「黒木くん」


 背後から、静かだが、凛とした声が、僕の名前を呼んだ。

 僕の体は、まるで背中に氷を当てられたかのように、ぴたりと凍りついた。全身の血が、急速に冷えていくのを感じる。この声を知らないはずがない。この声の持ち主から、今、最も逃げ出したかったはずなのに。


 僕は、壊れかけのブリキの人形みたいに、ぎこちなく、ゆっくりと振り返った。

 そこに立っていたのは、やはり、桐谷美咲だった。

 彼女は、図書室にいた時と同じように、まるで城壁みたいに積み上げられた、分厚い参考書の束を、両腕で抱えていた。その表情は、僕が知っている、どの彼女とも違っていた。教室で見せる、あの完璧なヒロインの笑顔ではない。僕をからかう時の、悪戯っぽい笑みでもない。かといって、怒っているわけでもないようだった。ただ、どこまでも真剣で、感情の色が抜け落ちた、静かな、静かな顔をしていた。


 僕は、覚悟を決めた。自分の行動について、今ここで、彼女からの詰問を受けるのだ。僕は、これから浴びせられるであろう軽蔑の言葉を、ただ甘んじて受け入れるしかない。


 彼女は、まっすぐ僕の方へ、一歩、また一歩と、歩み寄ってくる。長い、耐え難いほどの沈黙が、僕たちの間に落ちた。僕は、何か言い訳をしなければと、必死に言葉を探した。しかし、僕の喉は、カラカラに乾ききっていて、意味のある音を発することができない。


 僕が、何かを言おうと、わずかに口を開きかけた、その時だった。

 彼女は、僕の目を、見なかった。その視線は、自分が抱えている参考書の山の一番上に置かれた、一冊の、くたびれた古典の教科書に、落とされていた。

 そして、ぽつりと、まるで独り言みたいに、か細い声で、呟いた。


「……古典、全然わかんない」


 その言葉は、僕が想像していた、どんな非難の言葉とも、違っていた。完璧で、万能で、弱さなど微塵も見せないはずの彼女が、その口から発した、あまりに率直で、あまりに無防備な、小さな、小さな降伏宣言。


 僕は、その不意打ちのような一言に、驚きのあまり、言葉を失った。僕の頭の中で、必死に組み立てていた言い訳の文章が、ガラガラと音を立てて崩れていく。やがて、彼女は、意を決したように、ゆっくりと顔を上げた。そして、初めて、僕の目を、まっすぐに、射抜くように見つめた。

 その瞳は、少しだけ潤んでいるように見えた。


「少しだけ、教えて」


 その声には、これまでの、僕を振り回してきた命令や、悪戯の響きは、一切含まれていなかった。

 ただ、純粋な、助けを求める響きだけが、そこにはあった。


 僕の脳は、完全にキャパシティを超えていた。

 目の前にいるこの少女は、本当に、あの桐谷美咲なのだろうか。僕の知らない、誰かが、彼女の仮面を被っているだけなのではないか。

 しかし、彼女のその真剣な眼差しは、僕に、逃げることを許してはくれなかった。

 僕は、ほとんど無意識のうちに、小さく、頷いていた。


 僕たちは、図書室ではなく、誰もいない、自分たちの教室へと戻った。窓の外は、すでに燃えるような、鮮やかなオレンジ色に染まっている。机も、椅子も、黒板も、その夕日の光を浴びて、昼間とは全く違う、感傷的な表情を見せていた。


 彼女は、自分の席に、抱えていた参考書の山を、どさりと置いた。僕は、彼女の隣の席に座る勇気は、とてもじゃないが、なかった。その代わりに、自分の席の椅子を引きずると、彼女の机の横に、ガタン、と大きな音を立てて、くっつけるようにして置いた。その、少しだけ離れた、しかし、これまでにはあり得なかった物理的な距離が、今の僕たちの、ぎこちなくも新しい関係性を、象徴しているようだった。


 僕は、彼女が苦手だという助動詞の活用について、教科書の特定の箇所を指差しながら、自分でも驚くほど、不器用な言葉で、説明を始めた。

 彼女は、僕がこれまで見たこともないほど、真剣な表情で、僕の言葉の一言一句を、聞き漏らすまいとするかのように、耳を傾けていた。


 いつもは遠い世界の出来事だと思っていた彼女の横顔が、今は、手を伸ばせば届いてしまいそうな距離にある。僕たちの、秘密の補習が始まった。

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