第8話 衣替え

 六月の声を聞くと、僕たちの学校では衣替えが行われる。それは、まるで季節そのものが、重たい冬服を脱ぎ捨てて、軽やかな夏服へと着替えるみたいに、校内の風景を一変させる、毎年恒例の儀式だった。


 月曜日の朝、僕が教室のドアを開けると、その変化は誰の目にも明らかだった。これまで空間の色彩を支配していた、あの生真面目で少し息苦しい濃紺のブレザーが、一斉に姿を消していたのだ。代わりに、生徒たちの体を包んでいるのは、白いワイシャツやブラウス。窓から差し込む初夏の日差しが、その白さに反射して、教室全体が先週よりも一段階、明るくなったように感じられた。


 空気も、どこか浮き足立っている。湿り気を含んだ風が、開け放たれた窓から吹き込んできて、女子生徒たちの結んでいない髪や、ブラウスの襟を、優しく揺らしていく。その光景は、どこか現実離れしていて、まるでスローモーションで再生される映画のワンシーンのようだった。


 男子生徒たちの声も、心なしかいつもよりトーンが高い。彼らは、あからさまな視線を送るわけではないが、その意識の大半が、夏服になった女子生徒たちの、その瑞々しい輪郭に向けられていることは、僕のような人間にも手に取るように分かった。夏の始まりが連れてくる、根拠のない高揚感。それは、僕のいる教室の隅にまで、じわりと伝播してきていた。


 僕は、自分の席に座ると、そんな教室の空気を、まるで他人事のように静かに観察していた。僕は、季節が変わろうと、制服が変わろうと、何も変わらない。ただ、ここに座って、世界の移ろいを眺めているだけ。それこそが、僕の役割なのだから。


 休み時間になると、その浮き足立った空気は、さらに濃度を増した。その中心にいるのは、言うまでもなく、桐谷美咲だった。

 白いブラウスに、青を基調とした涼しげなチェックのスカート。夏服になった彼女は、冬服の時よりも、さらにその存在の輝きを増しているように見えた。装飾が削ぎ落とされた分、彼女自身の持つ素材の良さ、というものが、より一層、際立って見える。


 クラスの中心グループに属する男子たちが、少し離れた場所から、まるで貴重な美術品でも眺めるかのように、彼女の姿を目で追っていた。


「おい、見たかよ」

「見た。やっぱ桐谷、レベル違うわ……」

「だよな。夏服、マジで最強じゃないか? 透明感がすごい」

 彼らが交わす、憧れと、そして自分たちには決して手の届かないという諦めが混じった会話が、僕の耳にも届いた。それは、この教室にいるその他大勢の、共通認識のようなものだった。僕は、そんな彼らの声を遠くに聞きながら、数日前の、あの雨の日の出来事を思い出していた。


 一つの傘の下、触れ合いそうなくらいすぐ隣で感じた、彼女の体温と、シャンプーの匂い。あの出来事は、果たして本当に、この現実世界で起こったことなのだろうか。今、友人たちの輪の中心で、太陽みたいに完璧な笑顔を浮かべている彼女を見ていると、すべてが僕の作り出した都合の良い幻だったような気さえしてくる。

 僕と彼女の間には、やはり、簡単には越えることのできない、残酷なほどの断絶がある。あの相合傘は、その断絶の淵に、ほんの束の間だけ架けられた、脆い吊り橋のようなものだったのかもしれない。僕は、改めてその事実を突きつけられ、軽い感傷に浸っていた。


 昼休み。僕が、いつものように自分の席で弁当を広げようとしていると、美咲が友人たちと連れ立って、賑やかに教室を出ていくのが見えた。おそらく、カフェテリアへ向かうのだろう。僕は、その後ろ姿を何気なく目で追っていた。その時だった。廊下から、彼女たちの会話の断片が、僕の耳に飛び込んできたのは。


「ねえ、週末さ、駅前に新しくできたお洒落なカフェに行かない? パンケーキがすごく美味しいんだって」

 友人の一人が、ファッション雑誌を広げながら、そう提案していた。

「あ、知ってる! インスタで見たことある!」

「いいね、行きたい!」

 その提案に、桐谷美咲は、一点の曇りもない、完璧なヒロインの笑顔で答えていた。

「美咲っぽい! そういうお洒落なお店、絶対似合うよ!」

 友人たちは、きゃっきゃと声を上げて盛り上がっている。その光景は、僕がよく知る、碧海学園の日常そのものだった。

 僕は、その会話を耳にしながら、ほとんど無意識に、心の中で静かに、しかし、絶対的な確信をもって、呟いていた。


 ――違う。


 違う、と僕の中の僕が言った。

 こいつが、桐谷美咲が、本当に心を躍らせるのは、インスタ映えするカフェの、ふわふわしたパンケーキなんかじゃない。

 僕の脳裏に、鮮明な記憶が蘇る。あの日の帰り道、彼女が少しだけ見せた、素顔。

 彼女が本当に好きなのは、駅裏の、いつも行列ができているラーメン屋『天下一』の、あのこってりした豚骨ラーメンだ。コンビニで売っている、揚げたてのフライドチキンだ。そして、おばあちゃんが作ってくれる、甘い卵焼きだ。


 周囲が熱狂し、作り上げ、そして崇拝している「完璧なヒロイン・桐谷美咲」という、美しくも薄っぺらい虚像。

 そして、僕だけが知っている、少しがさつで、子供っぽくて、人間味にあふれる彼女の実像。

 その、あまりに大きなギャップ。そのギャップを知っているのは、おそらく、この千五百人もの生徒が通う、広大な碧海学園の中で、僕、ただ一人だけだ。

 その事実に気づいた瞬間、僕の胸の中に、奇妙な感情が芽生えた。それは、小さな優越感と、秘密を共有しているような、くすぐったい気持ちが混じり合った、これまで一度も感じたことのない、新しい種類の感情だった。


 放課後。ほとんどの生徒が帰り支度を終え、がらんとし始めた教室で、僕は一人、窓の外を眺めていた。夏の強い西日が、教室に長い影を落としている。

 僕は、桐谷美咲という存在の、その不思議な二面性について、改めて考えていた。


 みんなの前で見せる、太陽のような完璧な横顔。

 そして、僕だけに見せた、普通の女の子の横顔。

 一体、どちらが本当の彼女なのだろうか。あるいは、その両方を含んだすべてが、桐谷美咲という人間なのだろうか。僕には、まだその答えが分からなかった。


 その時だった。

 友人たちと一緒に、教室のドアへと向かっていた美咲が、ふと、こちらを振り返った。そして、ほんの一瞬だけ、僕たちの視線が、教室の対角線上で交差した。

 彼女は、誰にも気づかれない、本当に、ほんのわずかな動きで、口の端を上げて、にこりと笑ったように見えた。

 それは、クラスメイトの誰も、おそらく彼女の親しい友人さえも、決してその意味を理解できないであろう、僕にだけ向けられた、小さな、秘密の合図のようだった。


 僕は、心臓がまた、小さく跳ねるのを感じた。


 縮まったはずなのに、やはり、絶望的に遠い。

 その不思議な距離感に戸惑いながらも、僕は、この奇妙で、面倒で、そして少しだけ心躍る関係が、まだ確かに続いていることを確信していた。

 夏の強い西日が、僕の心の中に落ちた、彼女という名の小さな影を、長く、長く、伸ばしていた。

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