第7話 梅雨空
六月が、その本領を発揮し始めていた。
教室の窓の外は、どこまでも見渡す限り、のっぺりとした灰色の空に覆われている。空気は、まるで水槽の底に沈殿したみたいに、湿っぽく、そして重い。時折、気まぐれに作動する天井の扇風機が、僕たちの生ぬるい体温をかき混ぜていくだけ。誰もが、この梅雨特有の気怠さに思考の大部分を支配されているようだった。
先週の半ばに、桐谷美咲と交わした、あの短いメッセージのやり取り。あれ以来、僕たちの間に何かが劇的に変わったわけではない。学校で言葉を交わすこともなければ、彼女が僕の席に近づいてくることもない。けれど、何も変わらない、というわけでもなかった。
以前の、あのどうしようもなく遠かった沈黙とは、質が違う。今の僕たちの間に流れているのは、お互いが、お互いの存在を、意識の片隅で捉え続けていることが分かる、奇妙な緊張感をはらんだ沈黙だった。
時折、ふとした瞬間に視線が絡みそうになっては、慌てて逸らす。その静かなゲームは、僕の心をわずかに波立たせたが、不思議と不快ではなかった。むしろ、この何も起こらない、けれど何かが起こるかもしれないという予感に満ちた日常を、僕は悪くない、とさえ感じ始めていた。
その日の最後の授業が終わるのを告げるチャイムが、気怠い空気の中で鳴り響いた。
僕は、他の生徒たちと同じように、ゆっくりと帰り支度を始める。早くこの湿った教室から抜け出して、自室の静寂に身を浸したい。そう考えていた、まさにその時だった。
最初は、ポツ、ポツ、と窓を叩く、遠慮がちな音だった。しかし、それはすぐに、まるで空に穴が空いたかのような、激しい音の奔流へと変わった。ザーッという轟音と共に、窓の外の景色が、白い飛沫のカーテンの向こう側へと隠されていく。典型的な、夏の夕立だった。
昇降口は、軽いパニックと、諦めの溜め息で満ちていた。
用意周到に傘を持参していた生徒たちが、安堵の表情で、あるいは少しだけ優越感を滲ませながら、次々と雨の中へと消えていく。やがて、そこには僕を含む、十数人の「持たざる者」たちだけが、まるで難民みたいに取り残された。
僕は、壁に背中を預けると、ただ静かに、アスファルトを叩きつけては白く跳ね上がる無数の雨粒を眺めていた。誰かに傘を借りようと奔走するわけでもなく、この雨の中を走り出すほどの情熱もない。世界が作り出したこの状況を、ただ受け入れる。それこそが、僕という傍観者の、最も得意とするところだった。この雨も、いずれは止むだろう。僕は、その時を待てばいい。
その時だった。
僕のすぐ横を、桐谷美咲が通り過ぎていった。彼女は、友人らしき女子生徒と、楽しそうに何かを話している。その手には、僕が持っていないもの――上品なチェック柄の折り畳み傘が、まるで勝利のトロフィーみたいに握られていた。
彼女は、昇降口に立ち往生している僕の姿を、一瞬だけ、本当に、ほんの一瞬だけ、意味ありげな視線で捉えた。しかし、彼女は何も言わなかった。そのまま友人と共に傘を開き、激しい雨が作り出す灰色の壁の向こう側へと、その姿を消した。
僕の心の中に、針で刺したみたいに、ちくりと小さな痛みが走った。何を期待していたんだ、と僕はすぐに自分自身を嘲笑する。当たり前だ。彼女が僕に、手を差し伸べる義理など、どこにもないのだから。僕たちの関係は、彼女の気まぐれなルールの上だけで成立する、極めて限定的なものなのだ。
僕は、その小さな失望を、湿った空気と一緒に心の奥底へと飲み込んだ。
それから、数分が経過しただろうか。
閉ざされていたはずの昇降口のドアが、再び、きい、と小さな音を立てて開いた。
そこに立っていたのは、一人、桐谷美咲だった。
彼女は、びしょ濡れになるのも構わず、友人を先に行かせ、わざわざここまで戻ってきたらしかった。その髪先からは、雨の雫がキラキラと光りながら滴り落ちている。
彼女は、僕の前に立つと、少しだけ呆れたような、しかし怒っているわけではない、ひどく複雑な表情を浮かべた。そして、まるで舞台の上で演じる役者のように、芝居がかった大きな溜め息を一つ、吐いてみせた。
「しょうがないなあ、私の“彼氏”さん」
そう言って、彼女は自分の傘を、僕と彼女の間に、まるで国境線みたいに差し出した。
「駅まで、だけどね」
一つの傘の下に、男女二人の高校生。
それは、僕がこれまで読んできた数々の青春小説で、幾度となく目にしてきた、王道中の王道みたいなシチュエーションだった。しかし、物語の登場人物たちが体験するであろう甘酸っぱいときめきと、僕が今感じている現実は、ひどくかけ離れていた。
僕の頭の中は、息が詰まるほどの気まずさと、心臓のけたたましい鼓動で、完全に飽和状態だった。
傘の布地一枚を隔てたすぐ外では、雨が世界を叩く音が轟々と鳴り響いている。けれど、傘の内側は、奇妙なほど静かだった。聞こえるのは、僕たちの、少しだけ早い呼吸の音と、ぎこちない足音だけ。
歩くたびに、制服の袖越しに、彼女の肩が僕の肩に、ふわりと触れる。そのたびに、彼女の微かな体温が、まるで電流みたいに僕の全身を駆け巡った。すぐ隣から香る、雨の匂いに混じった、清潔で甘いシャンプーの匂いが、僕の思考をさらに混乱させていく。
何か、話すべきだろうか。いや、しかし、何を? 天気の話をするには、僕たちはあまりに雨に濡れすぎている。先日のメッセージの礼を言う? いや、それはあまりに唐突だ。僕が、脳内で必死に会話のシミュレーションを繰り返している間にも、時間は無情に過ぎていく。
「……ごめん」
僕の足が、水たまりを踏んでしまった時、ようやく僕の口から絞り出されたのは、そんな情けない一言だけだった。
「……ん」
彼女は、短く、それだけ応えた。
永遠にも思えるほど長かった、駅までの道のり。
屋根のある駅の改札口にたどり着いた瞬間、僕たちの間にあった、あの小さな閉じた世界は、あっけなく終わりを告げた。
美咲は、パッと僕から半歩距離を取ると、何事もなかったかのように、手際良く傘を畳んだ。
「じゃあ」
彼女は、それだけ言うと、僕の方を振り返りもせずに、自分の乗る路線のホームの方へと、さっさと歩いて行ってしまった。その背中は、いつもの、僕の知らない完璧なヒロインの背中だった。
一人、改札口に残された僕は、しばらくの間、その場を動けなかった。
僕の左肩は、傘から少しだけはみ出していたせいで、雨に濡れてひんやりと冷たい。
けれど、彼女と触れ合っていた右肩は、まだ、彼女の温かさが、幻みたいに残っているような気がした。
『偽の彼氏』という、あの奇妙な契約書には、こんな、心臓に悪いオプションサービスまで、含まれているというのだろうか。
その答えの出ない問いを胸に、僕は、濡れたアスファルトの匂いが立ち込める駅のホームで、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
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