第3話 理不尽な宿題

 僕の部屋は、完璧な静寂に満ちていた。読みかけの文庫本が机の上にあり、飲みかけのコーヒーが静かに湯気を立てている。窓の外からは、遠くで練習に励む野球部の掛け声が聞こえてくる。それは僕が愛してやまない、何も起こらない、完璧に平穏な休日の風景だった。

 ただ一つ、その風景にそぐわないノイズがあるとすれば、僕の頭の中に居座り続ける、桐谷美咲から出された理不尽な宿題のことだった。


 『私の好きな食べ物を3つ当てること』。

 それは、まるで天文学者が、観測機器も使わずに遠い恒星の内部構造を推測しろ、と言われているようなものだった。ネットで彼女の名前を検索しても、出てくるのは学校のウェブサイトに載っている成績優秀者としての表彰記録くらいだ。もちろん、友人に聞くなどという選択肢は、僕の対人スキルと彼女の出したルールの両方が固く禁じている。

 そもそも、なぜ僕が、学園のヒロインの食生活について、貴重な休日を費やしてまで考察を巡らせなければならないのだろう。契約、と彼女は言った。しかし、こんなものは契約というよりは、専制君主が気まぐれに家臣へ与える試練に近い。やれやれ、と僕は思う。僕の平穏な日常は、どうやら僕が思っていたよりもずっと脆い土台の上に成り立っていたらしい。


 それでも、と僕は考える。この宿題を放棄すれば、月曜日に会う彼女が、あの悪戯っぽい笑みを浮かべてどんな追い打ちをかけてくるか、想像もつかない。「舞台袖のボーイフレンド」として、これはどうやら僕がこなすべき最初の「仕事」であり、同時に「テスト」でもあるようだった。

 僕はコーヒーを一口飲み、覚悟を決めた。そして、思考のスイッチを切り替える。桐谷美咲という人間を、遠い天体としてではなく、解き明かすべき一つの暗号として捉えることにしたのだ。僕がこれまで、自分と世界との間に距離を置くためにだけ使ってきた「観察」と「分析」の能力が、皮肉にも、初めて他者と関わるために使われることになった。


 週明けの月曜日、碧海学園の空気は先週と何も変わっていなかった。生徒たちの噂話は、新しいゴシップが見つかるまでの、つなぎのエンターテイメントみたいなものだ。僕に向けられる視線の数も、好奇心の含有量も、少しずつ平常運転へと戻りつつあった。しかし、変わったのは僕の方だった。

 僕の視線は、もはや教室の窓の外や、文庫本の活字の上を彷徨ってはいなかった。まるで、熟練の探偵がターゲットを監視するように、あるいは、臆病な草食動物が天敵の動向を窺うように、そのほとんどが桐谷美咲という一点に集中していた。もちろん、本人に気づかれないよう、細心の注意を払って。


 最初のチャンスは、昼休みに訪れた。

 美咲は友人である女子数人と連れ立って、カフェテリアの方へと向かった。僕は少し時間を置いてから、何気ない顔で後を追う。カフェテリアは、昼時の喧騒の真っ只中にあった。トレーのぶつかる音、生徒たちの笑い声、様々な食べ物の匂いが渾然一体となって、巨大な生き物の胃袋の中にいるような気分になる。

 僕は、柱の陰から、食券販売機の前に立つ美咲の姿を観察した。彼女は何を選ぶのだろう。完璧なヒロインである彼女のことだ。カロリー計算されたヘルシーなサラダセットか、あるいは、お洒落なカフェで出てくるような、そういう何かかもしれない。

 しかし、彼女が選んだのは、意外なほど普通の日替わりランチ――『今週のパスタランチ(じっくり煮込んだトマトソース)』だった。彼女はごく自然に食券を受け取ると、仲間たちの待つテーブルへと戻っていく。僕は自分のスマホのメモ帳に、そっと『パスタ』とだけ打ち込んだ。いかにも彼女らしい、イメージ通りの選択肢だ。これが一つ目の答えの有力候補に違いない。


 二つ目のチャンスは、その日の放課後だった。

 僕は彼女が教室を出るのを確認すると、またしても少し距離を置いて尾行を開始した。彼女は友人たちと別れると、昇降口へは向かわずに、購買部の方へ立ち寄った。僕は購買部の入り口のガラス越しに、中の様子を窺う。

 彼女は、パンが並んだ棚の前で少しだけ迷う素振りを見せた後、一つのパンを手に取ってレジへと向かった。その動作は、どこかの映画のワンシーンみたいに、いちいち絵になる。彼女が去った後、僕は意を決して購買部の中へ入った。まるで、スパイが情報源に接触するみたいな、妙な緊張感が心臓を締め付ける。

 レジにいたのは、人の顔と名前を覚えるのが得意だと評判の、パートのおばちゃんだった。

「あの、すみません」

「はい、なにかね?」

「さっきの……桐谷さんが買っていったパンって、まだありますか」

 我ながら、ひどく不自然で、気味の悪い質問だと思った。おばちゃんは、案の定、怪訝な顔で僕をじろりと見た。

「桐谷さん? ああ、美咲ちゃんね。あんた、美咲ちゃんの彼氏だっていう噂の……」

「いえ、それはその……」

「美咲ちゃんなら、新作のクリームパンよ。あそこの棚の、一番右のやつ。美味しいって評判なのよ」

 僕は礼を言うと、そそくさとその場を立ち去った。背中に、おばちゃんの探るような視線が突き刺さっているのを感じた。僕はスマホのメモ帳に、『クリームパン』と追加する。甘いものが好きなのか。これもまた、彼女のパブリックイメージにぴったりと合致していた。

 しかし、と僕は思う。あまりにイメージ通りすぎやしないだろうか。まるで、誰かが作った『完璧なヒロインのプロフィール』を、そのままなぞっているみたいだ。僕の心の片隅で、観察者の本能が、これは罠かもしれない、と警告を発していた。


 翌日の放課後。帰りのホームルームが終わると、僕の机の上に、見覚えのある小さなメモが置かれていた。クラスメイトの誰かが、僕が見ていない隙に置いたのだろう。そこには、昨日と同じ、整った文字が並んでいた。


 ――放課後、西棟の裏で。


 西棟の裏は、体育倉庫と古い焼却炉が打ち捨てられている、学園内でも特に人気の無い場所だった。僕は鞄を持つと、誰にも見られないように教室を抜け出し、指定された場所へと向かった。

 美咲は、西日の当たるコンクリートの壁に寄りかかりながら、スマホをいじって待っていた。夕日が彼女の艶のある黒髪を、燃えるようなオレンジ色に染め上げている。その姿は、まるでこの世界から切り取られた、一枚の絵画のようだった。

「来たんだ」

 僕に気づくと、彼女はスマホをポケットにしまい、悪戯っぽい笑みを浮かべた。クイズの答えを知っている、出題者だけが持つ特有の余裕が、その表情には満ちていた。

「で、宿題、できた?」

「……たぶん」

 僕は少しだけ間を置いてから、自分の推理を披露することにした。

「一つ目は、パスタ。トマトソースのやつだ。二つ目は、クリームパン。甘いものが好きなんだろうと思って。そして三つ目だけど……これは僕の完全な推理だ。君みたいなタイプは、きっと、イチゴのショートケーキが好きなんじゃないか?」

 完璧なヒロインが好きそうなメニュー。僕は、自分が出した答えに、それなりの自信を持っていた。僕のプレゼンテーションを聞き終えると、彼女はしばらくの間、黙って僕の顔を見つめていた。そして、次の瞬間、こらえきれないといった様子で、くすくすと笑い出した。それは、教室で友人たちに見せる計算された笑顔とは違う、もっと無防備で、心の底からおかしいという響きを持った笑い声だった。


「すごい。ある意味、すごいよ、黒木くん」ひとしきり笑い終えると、彼女は涙の滲んだ目元を指で拭った。「一つも合ってない。ぜんぶ、大ハズレ」


 僕は、自分の耳を疑った。愕然、という言葉は、まさにこういう時のためにあるのだろう。

「……じゃあ、答えはなんなんだよ」

 僕が絞り出した声は、自分でも情けないと思うほど、弱々しかった。

 美咲は、まだ少し残っている笑いの気配を飲み込むと、ふっと真顔に戻った。そして、少しだけ遠い目をして、まるで誰か別の、ここにいない誰かに語りかけるみたいに、静かな声で言った。


「正解は、駅前のラーメン屋『天下一』の、こってり豚骨ラーメン。それと、コンビニで売ってる、揚げたてのフライドチキン。最後の一つはね、おばあちゃんが作ってくれる、甘い卵焼き」


 その三つのメニューは、僕が必死に作り上げた『完璧なヒロイン・桐谷美咲』のイメージとは、あまりにかけ離れていた。僕がイメージしていた彼女が住むきらびやかな世界の住人ではなく、もっと、僕と同じ地面に立つ、ごく普通の高校生の言葉だった。僕は、そのあまりのギャップに、返す言葉を見つけられなかった。初めて見る、「完璧じゃない」桐谷美咲の一面に、僕の思考は完全に停止していた。


「ま、君に当てられるわけないと思ってたけどね」

 彼女は、我に返ったように、またいつもの意地悪な笑みを浮かべた。

「というわけで、宿題は不正解。残念でした。罰として、次の土曜日、一日、私に付き合ってもらうから」

「……は?」

「ちゃんと彼氏役、やってもらうよ。これも契約のうちだから。予定、ちゃんと空けといてよね」

「待てよ、どこに行くんだ。一体、何をするんだ」

「詳細は、また連絡する」

 彼女は、僕の質問には答えず、一方的にそれだけ告げると、ひらりと手を振って去っていった。


 一人、夕暮れの校舎裏に残された僕は、しばらくその場を動けなかった。

 彼女の本当の好物。そして、新たに課せられた「週末のデート」という名の、罰ゲーム。

 僕の頭の中は、解決したはずの謎と、新たに生まれた謎で、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた。ただ、その混乱の中心で、僕は、認めざるを得なかった。

 桐谷美咲という、遠い恒星だと思っていた少女のことを、もっと知りたい、と。

 そんな、抗いがたい興味が、僕の心の中に、ほんのわずかに芽生え始めていることに、僕はもう、気づかないふりをすることはできなかった。

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