第2話 最初の打ち合わせ

 人間は、眠っている間に脳内の情報を整理するらしい。昨日の出来事が、もし僕の脳が作り出したエラーやバグの類であるならば、一晩眠ればきれいにデフラグされて、いつもの日常が戻ってくるはずだ。僕はそんな、ほとんど祈りに近い希望的観測を抱きながら、目を覚ました。


 見慣れた自室の、シミひとつない白い天井。窓の隙間から差し込む光の角度。階下から聞こえてくる、母親が朝食の準備をする微かな音。世界は昨日までと何ひとつ変わらないパーツで構成されているように見えた。僕はゆっくりと上半身を起こし、意識を自分の内側へと集中させる。記憶のアーカイブを検索するみたいに、昨日の放課後を再生する。


 湿った空気。群衆の熱気。夕日の赤。そして、僕の袖を掴んだ彼女の指の、信じられないくらい確かな体温。


 駄目だった。その記憶は、消去するどころか、むしろ一晩寝かせたことでより鮮明な輪郭を持ってしまっていた。まるで上質なワインみたいに、あるいは質の悪い悪夢みたいに。


 僕はベッドから抜け出し、制服に着替えながら考える。これからどうなるのだろう、と。そもそも、あれは一体何だったのだろう。桐谷美咲の、気まぐれなパフォーマンス? それとも、何か壮大ないたずらの一環だろうか。いずれにせよ、僕という存在が、彼女の物語にキャスティングされる理由はどこにもないはずだ。連絡先さえ知らないのだ。このまま今日一日、何もなければ、きっと昨日の出来事は昇降口に差し込んだ夕日と共に溶けて消えて、僕の日常はまた元の場所へと静かに着地するに違いない。そう、きっとそうだ。


 僕はそんな淡い期待を胸に、いつもより少しだけ重い革靴を履いて玄関のドアを開けた。僕たちの住む街は、海に向かってなだらかに下っている。僕の家も、そして碧海学園もその坂の途中にあった。いつもは何の感慨もなく上り下りしているその坂道が、今日だけはひどく長く、そして過酷なものに感じられた。まるで、これから始まる物語の傾斜を暗示しているみたいに。やれやれ、と僕は思う。僕はいつからこんな、三流小説みたいな感傷に浸るようになったのだろう。


 教室のドアを開けた瞬間、僕は自分の期待が、砂糖菓子みたいに脆く、そして甘いものであったことを悟った。

 空気が、違う。

 これまで僕という人間は、この教室という空間において、空気そのものだった。誰にも意識されず、ただそこに存在するだけの、透明な存在。しかし今、僕が足を踏み入れた瞬間、いくつかの会話が不自然に途切れ、幾筋もの視線が僕の体に突き刺さった。それは敵意というほど鋭利なものではない。もっと、こう、珍しい生き物を観察するような、あるいはゴシップ記事の登場人物を見るような、無遠慮な好奇心の塊だった。


 僕は平静を装い、自分の席へと向かう。窓際の後ろから三番目。僕がこの一年間、誰にも侵されることなく過ごしてきた聖域。しかし今日は、その席にたどり着くまでの数メートルが、まるでレッドカーペットの上を歩かされているみたいに居心地が悪かった。

「よぉ、黒木」

 声をかけてきたのは、クラスの中心グループに属する、確か佐藤くんという名前の男子だった。僕と彼が会話を交わすのは、おそらく四月の自己紹介以来のことだ。

「昨日、マジ? 桐谷と」

 ニヤニヤと、値踏みするような笑み。彼の周りにいた数人も、同じ表情で僕を見ていた。

「……何のことかな」

 僕は、自分でも驚くほど乾いた声でそう返した。ここで肯定も否定もせず、ただ曖昧にやり過ごすのが、僕がこれまでの人生で身につけてきた処世術だった。

「とぼけんなよ。昇降口で見てたヤツ、結構いんだぜ。お前ら、付き合ってんの?」

「さあ、どうだろうね」

 僕はそれだけ言うと、椅子に座って鞄から教科書を取り出した。これ以上会話を続ける意思はない、というポーズだ。佐藤くんはちぇっと舌打ちをしたが、それ以上は追及してこなかった。しかし、僕の背後では、新たなひそひそ話が始まったのが空気の振動で分かった。

「マジで付き合ってんのかな」「いやいや、相手は黒木だぞ?」「何かの罰ゲームじゃね?」「でも桐谷、高橋のことフッてたしな」

 まるで、僕という人間が存在しないかのように、彼らは僕について語る。僕は文庫本を開き、活字の海に意識を沈めようと試みた。けれど、文章はインクの染みとしてしか僕の目には映らず、その意味は頭の中を滑り落ちていくだけだった。僕は、自分が「背景」でいることが、どれほど快適で、守られた状態であったのかを、骨の髄まで思い知らされていた。


 ホームルームが始まり、授業が始まっても、その息苦しさは続いた。教師が僕を指名するたびに、クラスの空気がわずかにざわめく。僕が廊下を歩けば、すれ違う生徒が振り返る。僕の世界は、たった一日のうちに、すべての解像度が無理やり引き上げられてしまったみたいだった。これまで霞んで見えていなかったすべてのもの――他人の視線、悪意のない好奇心、無責任な噂話――が、やけに鮮明に見えてしまう。


 一方、この物語のもう一人の当事者である桐谷美咲は、僕の混乱などまるで意に介さない様子で、いつも通りの完璧なヒロインを演じていた。彼女の席は僕とは対角線上の、教室の最前列にある。休み時間になれば、男女問わず常に誰かが彼女の周りに集まり、明るい笑い声の中心には、いつも彼女がいた。彼女は一度として、僕の方に視線を向けることはなかった。その徹底した無関心さは、僕に再び、あの淡い期待を抱かせた。もしかしたら、本当に昨日のことは彼女の気まぐれで、今日になればすべて忘れてしまっているのではないか、と。そうであればいい。僕は心からそう願った。


 昼休みを告げるチャイムが鳴り、教室は再び喧騒に包まれた。僕は食堂へ行く気にもなれず、母親が作ってくれた弁当を鞄から取り出す。一人、静かにこの時間をやり過ごそう。そう考えていた、まさにその時だった。

「黒木くん」

 声をかけてきたのは、クラスでも物静かな印象の、女子の学級委員だった。彼女が僕に話しかけるなんて、何か事務的な連絡以外では初めてのことだ。

「これ、桐谷さんから」

 そう言って彼女は、小さく四つ折りにされたメモ用紙を僕の机に置いた。そして、僕が何かを言う前に、自分の席へと戻っていく。その動作はひどく素早く、まるで秘密の任務を遂行しているかのようだった。

 僕は、心臓が小さく跳ねるのを感じながら、そのメモを開いた。ひどく整った、けれどどこか機械的な冷たさを感じる文字が並んでいた。


 ――昼休み、12時40分に西棟の屋上に来て。時間厳守。


 召集令状だ、と僕は思った。アナログで、古典的で、そして有無を言わせない、一方的な命令。僕の抱いていた淡い期待は、この小さな紙切れ一枚によって、木っ端微塵に砕け散った。


 西棟は、特別教室や実験室が集まる、少し古い校舎だった。昼休みのこの時間は、ほとんど人気がない。僕は誰にも見られないように注意しながら、埃っぽい階段を一番上まで上った。屋上へ続く扉には、『関係者以外立入禁止』という色褪せたプレートがぶら下がっている。鍵はかかっていないようだった。僕は一度だけ深呼吸をすると、錆びたドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開いた。


 九月の強い日差しと、潮の匂いを含んだ風が、一斉に僕の体を包んだ。

 屋上は、僕が想像していたよりもずっと広かった。ひび割れたコンクリートの床。いくつかの給水タンク。そして、街と、その向こうに広がる青い海を一望できる、高いフェンス。

 桐谷美咲は、そのフェンスに背中を預けるようにして、遠くを眺めていた。教室で見る、誰かの輪の中心にいる彼女とはまるで違う。そこには、ひどく孤独で、どこか近寄りがたい雰囲気をまとった、僕の知らない一人の少女が立っていた。


 僕が扉を閉める音で、彼女はこちらに気づいた。

「時間通り。えらいえらい」

 彼女は、まるで小さな子供を褒めるみたいに、手を軽く叩いた。その表情には、教室で見せる太陽みたいな笑顔はない。どこか冷めていて、観察するような、ビジネスライクな光が宿っていた。僕はこの時、自分が初めて彼女の「舞台袖」に、観客ではなく、当事者として足を踏み入れたのだと直感した。


「それで、話っていうのは」僕は、できるだけ平静を装って切り出した。

「話、というか、打ち合わせ。今後のための」

 彼女はそう言うと、僕の方へ歩み寄ってきた。

「まずは、これ」

 彼女が差し出したのは、彼女自身のスマートフォンだった。連絡先の交換画面が開かれている。

「僕のことは、どうやって」

「学級委員の子に頼んで、クラス名簿で名前を確認した。黒木圭くん、でしょ? フルネーム、初めて知った」

 彼女は悪びれもせずに言う。僕は、自分の個人情報が、いとも簡単に他人の手に渡ってしまった事実に、少しばかりの恐怖を感じた。僕は抵抗する気力もなく、自分のスマホを取り出し、彼女と連絡先を交換した。僕のスマホの連絡先リストに『桐谷美咲』という、まるで芸能人の名前みたいな文字列が追加される。ひどく、非現実的な光景だった。


「よし、第一段階クリア」彼女は満足そうに頷くと、続けた。

「じゃあ、本題。これからの私たちの関係についての、ルールをいくつか決めたい」

「……契約、みたいなものか」

「そう、契約。ビジネスパートナーみたいなものだからね、私たち」


 彼女は人差し指を立てて、一つひとつ言い放った。

「まず、ルールその一。表向きは恋人同士ということになってるけど、校内で必要以上に私に話しかけないこと。噂が変に燃え上がるのは面倒だから。自然な距離感を保って」

「……」

「ルールその二。連絡は、さっき交換したメッセージのみ。緊急時以外、電話は禁止。もちろん、私のプライベートを探るのもNG」

「……」

「ルールその三。これが一番大事。私から『彼氏として』協力をお願いしたら、絶対に断らないこと。昨日みたいにね」

「……それじゃ、あまりに一方的すぎる」僕は、ようやく反論の言葉を口にした。「僕に何のメリットがある?」


「メリット?」

彼女は、僕が何を言っているのか分からない、という顔で首を傾げた。その仕草は計算されたみたいに完璧で、僕は一瞬、言葉に詰まる。

「それ、本気で言ってる? この私、桐谷美咲の彼氏っていう、誰もが羨む肩書きが手に入るのよ?」


彼女は心底呆れたように、しかしどこか面白そうに目を細めた。


「君が、ただその他大勢の『背景』じゃなくて、物語の登場人物になれる。その他大勢の男子生徒より、ほんの少しだけ特別な存在になれる。それって、君みたいなタイプにとっては、一生に一度のご褒美じゃない? まあ、君自身がそれを望んでるかは、知らないけど」


彼女は、残酷なくらい正確に僕という人間を分析していた。そして、僕が最も触れられたくない部分を、何の躊躇もなくナイフで抉るみたいに、言葉にして突きつけてくるのだ。

僕は、返す言葉を完全に見失っていた。


「そして最後のルール。この契約のことは、絶対に誰にも言わないこと。君と私の、二人だけの秘密」

 彼女は僕の顔をじっと見つめて、悪戯っぽく微笑んだ。その笑顔は、教室で見せる百万ドルの笑顔とは違う、共犯者だけに見せる、特別な種類の笑みだった。

「納得した?」

「……選択肢は、なさそうだからな」

「物分かりがよくて助かる」


 彼女は満足げに頷くと、不意に何かを思い出したように言った。

「あ、そうだ。最初の『彼氏としてのお仕事』、さっそくお願いしちゃおうかな」

「……もうあるのか」

「うん。恋人同士なら、お互いのこと、少しは知ってるのが自然でしょ? 何も知らないんじゃ、いつかボロが出るかもしれないし」

 彼女は、どこか楽しそうに、ゲームのルールを説明する子供みたいな口調で続けた。

「だから、クイズ。私の好きな食べ物、3つ当ててみて。もちろん、ネットで調べたり、友達に聞いたりするのは禁止。君自身の力で、よ」

 それは、あまりに不条理で、意地悪な、最初の宿題だった。僕が呆気に取られていると、昼休み終了の五分前を告げる予鈴が、遠くで鳴り響いた。

「あ、もうこんな時間。じゃあ、そういうことで」

 彼女は僕に背を向けると、屋上の扉へと向かった。そして、扉を開ける直前、一度だけ振り返った。

「答え、楽しみにしてるから。――よろしくね、舞台袖のボーイフレンドくん」

 西日の逆光で、彼女の表情はよく見えなかった。ただ、その声だけが、やけに明瞭に僕の耳に残った。


 一人、広すぎる屋上に残された僕は、しばらくの間、動くことができなかった。

 吹き抜けていく風は、もうすっかり秋の匂いがした。眼下に広がる街は、いつもと同じように穏やかな昼下がりの光に満ちている。けれど、僕がこれから帰るべき日常は、もう、昨日までと同じ場所にはないのだ。

 僕はポケットからスマホを取り出し、『桐谷美咲』の連絡先を、ただ、ぼんやりと眺めていた。

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