29話 濁流
ヴァルクは短く息を吐いた。
「……今日だけだ。資材の運搬を止める」
「私も行きます!」
勢い余って立ち上がるアメリアの肩を、ヴァルクは力強く押さえた。
「それは許可できない」
その瞳は迷いなく、冷ややかな決意を帯びている。
「あなたを危険な場所へ連れていくわけにはいきません。ここでお待ちください」
「でも――!」
食い下がろうとした声を、ヴァルクの低い一言が断ち切った。
「これは命令だ」
短く言い放つと、外套を羽織り、数名の騎士を連れて雨の帳へと馬を走らせる。
アメリアはただ、その背を見送るしかなかった。
だが、胸のざわめきは収まらない。
(もしヴァルクに何かあったら……!)
気づけば足は厩舎へ向かっていた。侍女たちが制止する間もなく、アメリアは馬を引き出し、雨の闇へと駆け出した。
⸻
ヴァルクが到着した時、現場は混乱の渦中にあった。
山の中では城付近とは比べ物にならないほど強い雨が降っていた。豪雨でぬかるんだ足場に荷車は沈み、作業員たちの怒声と悲鳴が入り乱れる。
「ここの指揮官は誰だ!」
おずおずと現れた責任者に、ヴァルクは鋭く命じた。
「資材は置いて、作業員をすぐに城へ戻せ!」
「えっ、資材を!?しかし、雨で流されてしまいます!せめて対策を――」
「そんな暇はない!命が優先だ。急げ!」
有無を言わせぬ声に、男は慌てて頷き、作業員たちへと指示を飛ばした。混乱の中にも秩序が戻り始める。
そのとき――。
「ヴァルク様!」
雨を切り裂いて駆け込んだ馬から、アメリアが飛び降りた。
濡れた外套を翻し、必死に彼へと駆け寄る。
「なっ……なんでここに!?」
「ごめんなさい、心配で……。とにかく早く離れましょう! このままだと――!」
言葉を最後まで告げるよりも早く、大地が唸った。
山が裂けるような轟音。黒い濁流が牙を剥き、怒涛の勢いで押し寄せてくる。
「――ッ!」
ヴァルクは反射的にアメリアを抱き上げ、全身で覆うように飛び込んだ。
土砂と折れた木々が奔流となって襲いかかり、世界を飲み込む。
作業員たちの悲鳴は瞬く間に雨音にかき消され、泥と水飛沫が視界を覆い尽くす。
ヴァルクは木を背にしてアメリアを必死に抱き締めた。
アメリアは彼の肩越しに、濁流が全てを押し流していくのをただ見守るしかなかった。
やがて大地の震えが収まると、目の前には土砂が積み重なった深い壁が築かれていた。
「怪我はないか?」
ヴァルクが息を荒げながらも低く問う。
「はい……。ヴァルク様は?」
「大丈夫だ」
そう言って、壁に向き直る。
「おい! 誰かいるか!」
「団長! ご無事ですか!」
「そちらの被害は!?」
「残っていた作業員たちは全員無事です!」
「そうか……。第二派が来るかもしれない。お前たちは城へ戻れ」
「団長と殿下は!?」
「こちらは安全な場所へ移動する。雨が止み次第、別ルートを探すが、夜までに戻れない可能性もある。発砲弾を合図にするから警戒を怠るな」
「承知しました! ご武運を!」
声が遠ざかり、静寂と雨音だけが残った。
ヴァルクはアメリアの手を取る。
「すまないが、歩けるか?」
こくりと頷くと、彼はその手を力強く握り、濁流を避けるように逆方向へ進んでいった。
どれほど歩いただろうか。
木々の影に、不自然な黒い口がぽっかりと開いている。
「……洞窟か」
ヴァルクは足を止め、鋭い眼差しで中を確認する。
「ここなら一時の雨風をしのげる。中へ」
彼に促され、アメリアは躊躇しながら暗い洞窟へ足を踏み入れた。
洞窟に足を踏み入れると、外の雨音が嘘のように遠ざかり、ひんやりとした静寂が広がった。
アメリアは泥を被った外套を脱ぎ、裾の汚れを払い落とす。視線を落とせば、ドレスはすでに真っ黒に染まっている。
(……こんな格好で追いかけてきて、きっと呆れているに違いないわ)
ちらりとヴァルクを見た瞬間、思わず息を呑んだ。
彼は濡れた上着を脱ぎ捨て、逞しい上半身を露わにしていたのだ。
髪から滴る雫が肩を伝い、硬く引き締まった筋肉に沿って流れ落ちていく。
(な……なに、この体……)
熱を帯びた視線に気づいたのか、ヴァルクと目が合い、アメリアは慌てて顔を逸らした。
「どっ……どうして脱ぐのですか!?」
「どうしてって……濡れたままだと体が冷えるだろう」
彼は平然と答え、しかしすぐに気まずそうに眉を寄せた。
「殿下も――」
「わ、私は脱ぎませんっ!!」
「誰が脱げと言った!」
ヴァルクは声を荒げ、そっぽを向く。
「……すぐに焚き火を作る。そこで暖を取って乾かせばいい」
言い訳のような言葉を吐き捨てると、彼は背を向けて小枝や石を集め始めた。
その不器用な姿に、アメリアは胸の奥で小さく笑みが零れそうになるのを必死にこらえた。
やがて火打石の音とともに、ぱちりと小さな火花が生まれる。
湿った空気の中で、やっと火が移り、揺らめく炎が洞窟の闇を押しのけて広がっていった。
「……これで少しは温まるはずだ」
ヴァルクが組んだ焚き火は、まるで守るように二人の間に赤い光を投げかける。
炎に照らされた彼の横顔を盗み見ていると、先ほどの土砂崩れの時に彼に抱きしめられたことを思い出した。
彼の腕と身体に包まれていた瞬間、目の前で起こった恐ろしい出来事にすら打ち勝てる気がしていた。
一緒に飲み込まれてもおかしくなったのに、そんな可能性は1ミリも考えることなどなかった。
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