2.

「ご主人、この街にどうやら——」

 先の出来事を話しながら宿泊部屋のドアを開けたオリアスはぎょっとした。

 ベッドの上に、大きな白い繭が転げていたからだ。

 間もなくそれが毛布に全身包まったユラだと気づいたオリアスは、テーブル上に目を向けた。作り置いたサンドイッチは一切手がつけられていなかった。

 部屋の温度は低くは感じない。疲弊状態のユラが自分で食事を摂る確率はもともと五分五分ではあるがも、それでもオリアスは嫌な予感がして、毛布越しにユラの体を撫でた。

「寒いのか」

 返事はない。

 逡巡し、オリアスはユラから毛布を剥いた。

 現れたユラは胸を抱いて小さく震えていた。顔は赤く火照っていた。首まわりには汗が滲んでいた。呼吸は浅く乱れていて、苦しそうだった。

 ユラは魂を弔い体力を消耗するとたまに風邪のような症状を起こすことがある。今回もそれだろう。

 オリアスは濡らしたタオルを用意し、ユラの体に纏わりつく汗をざっと拭った。それからユラの首を支えつつ、彼の口元に水差しを寄せる。

「ご主人……ユラ。少しでいいから起きてくれ。水分を摂ろう」

「ん……」

 ユラが苦しげな吐息を漏らす。

 かすかに開いたその唇に、オリアスは水差しの先を含ませた。しかし注いだそばから、ユラの口端から水がとろとろと溢れていってしまう。

 オリアスはユラの口元を拭ってから、自身の口に水差しを運び水を含み、ユラに口づけた。ユラの唇はやわらかく、火傷しそうなほどの熱を持っていた。

 ユラの喉がとくりと上下し水を飲み下すのを見ては、もう一口、もう一口とオリアスは水を分け与えていく。

 ユラの呼吸がいくらか落ち着いたところで、ベッドに仰向けに寝かせた。新たなタオルを濡らしてユラのまろい額に乗せ、受付で追加の毛布借り掛けた。

 オリアスはしばしユラの様子を見守った。乾いたサンドイッチを消費し終えても、ユラの様子は変わりなかった。

「ご主人、また少し表に出てくる」

 オリアスは起こしてしまわない程度に囁くと、ユラの火照った頬をそっと撫でる。

 と、ユラの手がオリアスの外套の裾を掴んだ。

 うっすらと開かれたユラの黒い瞳は、瞬けば雫がこぼれそうなほどに濡れていた。熱い息を吐き零しながら、ユラがじっとオリアスを見つめた。

「どこ」

「外でお前の食事を用意してくる。いらないとか言うなよ」

「……サンドイッチ、あるだろ」

「サンドイッチはもう俺が食べました。体調が悪いときは消化にいいものじゃないと駄目だからな。ホテルにキッチンスペースもないようだし、外で拵えてくる」

 ユラはしばらくじっとオリアスを見つめてから、ぼそりと言った。

「本当に、甲斐甲斐しい悪魔だ」

 その唇がわずかに尖るのを見て、オリアスは小さく笑いを零した。

「俺が甲斐甲斐しいのはその通りだが、それは俺が悪魔だからじゃない」

 オリアスは人差し指でユラの顎下を撫でる。

「お前がユラだからだ」

「……オリアス」

 くい、と外套がひときわ強く引かれる。オリアスを見つめるユラの瞳に、別の熱が滲む。そそられないわけではないが——オリアスはユラの唇の前に人差し指を立てた。

「回復してからだ」

「さっき、してくれたのに」

「水を飲ませるのに必要だったから」

「……」

「なにがなんでもしろってお前が命じるなら、してもいいけど」

 ユラはより唇を尖らせて、顔をそっぽに向けた。

「寝る」

「ああ、そうしろ。できるだけ早く戻ってくるから」

 寝癖のついたユラの黒髪を二、三回撫でてから、オリアスはホテルを後にした。



 向かったのは、サンドイッチ用のパンを買ったパン屋だ。賑わう客の間を縫いながら食パンと牛乳を買いつつ、ダメもとで店員に尋ねた。

「連れが風邪を引いちまって、パン粥を拵えたいんだが。キッチンを借りることはできるか」

 パン屋の店員は首を横に振った。

「すみません。職人が常時在庫補充用のパンを作っているので、一般の方を入れる余裕はなくて……この街は外客が多いので、うちに限らず大抵の飲食店は客の回転も食べ物の出も激しいので、キッチンを借りるのはなかなか難しいかと思います」

 そう言うとパン屋の店員は、次の客の会計作業に移る。

 こうなるだろうとは思っていたから、野宿用の調理セットだけ詰め直したトランクをホテルから持ってきてはいた。一度街の外に出て拵えるかと、オリアスは店員に礼を告げ、店を出る。と、そこに、先にオリアスを劇団に誘ってきた男、リュウデウがにこにことした笑顔を浮かべて立っていた。

「いやいやどうも、さっきぶりですね」

「勧誘ならまた今度にしてくれ。急ぎの用事がある」

「聞いてましたよ。キッチンを使いたいんでしょう。それでしたら、うちの団員寮のものをお貸ししますよ」

 オリアスはわずかに表情を渋くした。

 街中では当然火を起こすわけにはいかず、ホテルのある街中から外までは距離がある。季節柄も相まって、パン粥を拵えても冷めてしまうし、ユラをだいぶ待たせることになってしまうだろう。 

 上手い話には大抵毒がある。が、相手の要望は先に一度聞いている。

 しばし思案したオリアスは、やがて重たい息を吐き出した。

「……取引はこっちの用事が済んでからしてくれ」

「おや、まだなにも言っていないのに」

 そう言いながらもリュウデウは笑みを深め、組んだ手を揉んだ。

 今はとにかく、ユラにパン粥を作り少しでも栄養を摂らせることが最重要だ。それに、先の稼ぎで二、三泊程度ならば問題なくなったが、ユラを完全に復調させるには、更なる宿泊と費用が必要になる。極めて不快で面倒ではあるものの、現状においてリュウデウとの取引は検討の余地がないこともない、と。

 そのときのオリアスは思っていた。



 オリアスたちが宿泊しているホテルから歩いて少しのところにある、てっぺんに赤い旗が建つ、白いドーム。この街で最も面積を占有しているそれが、リュウデウが主宰しているサーカス団専用シアターだった。

 深紅のカーペットが敷かれたエントランスは小奇麗で、通された場内の座席数はざっと見ても五百はありそうだ。黒いステージは年季はありながらもぴかぴかに磨かれていた。

 リュウデウ曰く、この劇場の築年数は八十年を超え、何度か改修工事を行ってはいるもののステージだけは大きく弄らないようにしているらしい。

「私が幼い頃からこの街最大のサーカス団だったんですよ。昔の我が家は貧しかったので生でショーを見れたのはほんの一度きりでしたが、ひどく心に残ったものです。大人になったらそのサーカス団の主催になるなんて、当時の私に話したところで少しも信じないでしょうね」

 滔々と得意げに語るリュウデウについていき、舞台裏にある階段を降りて行った地下が団員寮になっているようだった。

「こちらがキッチンです」

 と、開けられたドアの先に一歩踏み出すと同時、背を蹴られた。その弾みでもう一歩室内に踏み出してしまったところで、オリアスが振り返ると、ドアが閉められた。施錠の音が、がっちゃん、と虚しく響いた。

 そこは調理設備などまったくない、石壁に囲われた正方形の部屋だった。隅にベッドと簡易トイレが設置されていて、なんとも牢屋めいている。

「どういうつもりだ」

 壁もドアもそれなりに厚そうではあったが声は通るらしい。オリアスが背を手で払いながら声をあげると、ドアの向こうでリュウデウが応えた。

「我が劇団と永久契約をする決意が固まったらお声掛けください。ドアの前に、見張りを立たせていますので」

「そこまでして俺をサーカス団に入れたいのか」

「才ある者は、それを存分に活かせる場所で咲くべきですから。なるべく早くご決心いただけると、あなたに辛い思いをさせずに済みます」

「……初犯じゃないな」

 誘い込んでから部屋に押し入れるまでの一連に、一切の澱みや躊躇いが見られなかった。物言いにも悪びれが少しも感じられない。オリアスは肩を竦め、わずかに首を傾けた。

「人気ある老舗サーカス団なんだろ。どうしてそこまでする」

「人気ある老舗サーカス団だから、ですよ。世の中には盛者必衰という言葉がありますが、私は我が団を決して衰えさせたくはないのです」

「ずいぶんな思い入れだな」

「主宰ですから。それでは、私は事務仕事があるのでこれで失礼しますね」

「おい」

 応えは返ってこなかった。契約に頷くまで、ひたすら監禁するつもりらしい。

 オリアスは深々とため息を吐き、こめかみを押さえた。

 オリアスならば、どれだけ複雑な仕掛けが施されている鍵でも指先ひとつで容易に開けられる。なんなら、石壁も難なくぶち壊せるし、見張りの人間を消し炭にすることだって可能だ。そうしてしまいたいくらいには、オリアスは気が立っていた。

 だが、オリアスはこの街に恐怖と災いを齎しにきた悪魔ではない。あくまで、墓守ユラと契約し支援する立場にある悪魔だ。トラブルがあったとしても、街にも人命にも極力被害を出すことなく穏便解決、旅人らしく跡を濁すべきではない。

 そもそももうしばらくこの街に滞在する必要があるし、それに、この劇場は。

 オリアスは再びため息を吐く——とりあえず、錠を破って、見張りを眠らせて、しれっと外に出ればいいか。

 オリアスはドアに右手を翳す。瞬く間に、オリアスとドアの間に白い光で形作られた鍵が生まれる。オリアスはそれを掴むと、ドアに突き立てるようにして鍵を回した。正確には、回そうとした。しかし、鍵は動かなかった。

 錠破りはオリアスが最も得意とする魔法で、それを使えば不完全な死の状態にある魂の夢想に潜りこむことができる。

 眉を顰めたオリアスは一度、光の鍵を消すと、手元に白い立方体の塊を生み出し、落とした。それはあっという間に真っ黒に焦げながら落下したそれはぷすぷすと煙を上げる。

 ユラの養父の手記にあった。悪霊は塩を避け砂糖を拒む、と。

 オリアスが生み出した角砂糖が焦げたということは、悪霊がここにいることになる。

 悪霊は大抵は生前の悔いを恨みに変え、強い負の力を用いて自然を荒らしたり、生物に取り憑いたり唆したりといった悪事を働く。更に悪化が進めば力が増すとともに理性が完全に失せ大きな災いを起こすため、それを阻止するべく、処刑人と呼ばれる存在が世界を駆け巡り悪霊を始末している。

 この街に悪霊がいる可能性は察していたが、それにしてもなんという巡り合わせの悪さか。

 オリアスの人生においてなにかを開閉したいという場面で、錠破りの魔法が使えないことの方が圧倒的に少なかった。ただ、オリアスが元いた世界とこの世界はだいぶ造りが違う——元いた世界では魔法が当たり前に存在していたが、不完全な死、悪霊などは存在せず、当然墓守や処刑人もいなかった。

 なるほど得意な魔法も悪霊が絡むと塵ほども役に立たなくなることがあるらしい、というのはこれからも続く旅においては学びにはなった。だが、しかしそれは今でなくてもいい。目の届く範囲にユラがいて、ユラを守れる状況下でがよかった。

 主宰の強引な勧誘は悪霊に憑かれてのものだったのか。それとも、悪霊が勝手に悪戯を働いているのか。

 事実は定かではないが、オリアスはそこには構わないことにした。なにがどうであれ、オリアスはこの状況を脱するだけ。そして、オリアスの中での正攻法が封じられれた。残すは二択。逡巡したオリアスがやがて、手元に魔力を集めようとしたとき。天井に設置された蛍光灯がちかっと点滅した。

「ねぇ、もしかして、この部屋を破壊しようとしてなぁい?」

 砂糖をはちみつで煮詰めたような甘ったるい声がした。

 振り返ると、ベッドに女が足を組んで座っていた。

 白い髪はボリュームたっぷりのふたつ結びにし、なにからもその身を守れなさそうな薄っぺらくひらひらとしたワンピースを身に纏い、足には背の高いヒールを履いていた。女は髪を指先でくるくると弄りながら、金色の瞳を細めて、オリアスに微笑んだ。

「久しぶりね、オリアス」

「お前に親しげに名を呼ばれる筋合いはない」

「お前じゃないわ。ミオよ。忘れちゃったの? ああ、そういえばあなたって、人の名前を覚えるのは苦手だったわね」

 呆れたように肩を竦めるミオに、オリアスは目を眇めた。

「お前が俺を語るな」

「一緒に魔法を究めた仲じゃない」

「お前と究めた覚えはない」

「あたしの創造主とはあるでしょう。前にも言ったじゃない、あたしたち・・・・・はあの人の一部。あの人とあなたたち・・・・・との思い出だってぜーんぶ知ってる。だからあたしは事実上、あなたの朋友」

「その理屈も、あいつが俺たちをまだ朋友と思っているってのもちっとも理解できないな。もしお前の創造主に会う機会があれば言っておいてくれ。お花畑思考もいい加減にしておけって」

「あなたが直接会いに行って言った方が創造主は喜ぶわよ」

「これだけ言ってんのに、会いたくねぇのが分かんねぇのか」

 オリアスはまた痛んだこめかみを押さえ、深いため息を吐いた。

「それで、お前はなにしにここに来た」

「あなたがリュウデウに騙されるのは見ていたから、こっそり後をつけてたの」

「……」

「うふふ、馬鹿にするためじゃないわよ? あなたに暴れられて悪霊を逃がされでもしたら困るのよ。ここの悪霊は私の同行者の獲物だから」

「じゃあ、今すぐその同行者を呼んでさっさと始末させろ」

「まぁまぁ、そのうち来るから。それまで思い出話にでも花を咲かせましょうよ」

 オリアスは手元に水の渦を生み出す。立ち上がったミオはオリアスの手に自身の手を重ねると、水の渦を打ち消した。

 にたにたと笑うミオに、そのまま指をひとつひとつ絡められそうになるのを振り払い、そのわき腹を蹴ろうとしたが空振る。ミオの身体が透けたからだ。

「〝天使〟に肉弾戦は効かないってば」

「意識を持った紙符風情に天使を名乗らせるのも痛いってのも言っておけ」

「ところで、オリアス。あたし、気になってたことがあるの」

「答える義理はない、お前の同行者を呼んでくるか俺の邪魔をやめろ」

「この部屋から出るもっとも簡単な方法って、リュウデウと契約するふりをすることでしょ」

 ミオは金色の瞳をにいっと細め、首を傾げる。

「どうして、その手段を取らないの?」

「俺はお前の根源たる紙符を燃やさずとも、お前を消すことができる。されたくなければ、口を慎め」

「この話題ってそんなに地雷? もしかして、今言われて初めて気づいたとか? それとも……ユラ・エトランゼ絡み? まさかぁ、ユラ・エトランゼ以外とは嘘でも契約したくないとか思ってる?」

「……」

「その顔、図星でしょ! へぇ、ふぅん。あなたって本当にユラ・エトランゼを大切に思ってるのね」

 ぱち、とオリアスが指を弾くと、床から水でできた蔦がいくつも生え伸びる。それはミオの四肢を絡め取ると、床に引き寄せ拘束した。

「ああーんひどい。こんなこと、創造主様にもされたことないのに」

「うるさい」

 オリアスはミオを見下ろし、右手を翳す。そして、一本の鍵を生み出す。

「ユラに手を出すのなら、かつての縁も義理もなにもかもかなぐり捨てるぞ」

「出さないわよ。むしろ微笑ましいと思ってるのよ? 昔はよく言えば平等、悪く言えばがらんどうだったあなたが、これほどまでに心を寄せる相手ができたこと。創造主はその子と挨拶したがってるわ」

「そこにどういう理由や正義があったとしても、一度裏切りを働いたやつに、ましてやユラを連れて会いに行くなんてのはごめんだ」

「本当に大事なのね。ならあと五秒は、ここで大人しくしていた方がいいわ」

「はぁ?」

「だって、巻き込みたくないでしょう?」

 蛍光灯がちか、ちかと点滅した。先に床に落とした砂糖が激しく煙を上げ焦げたにおいを放つ。間もなく、ドアからばちっと火花が散ると、開かれる。

 そこには、赤い顔をしたユラが立っていた。

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