アルカディアの逃避行

鈍野世海

Ⅰ.人狼の街

1.

 不完全な死。

 それは肉体が生命活動を停止したにもかかわらず、現世に留まり続けている魂の状態を指す。

 不完全な死の状態にある魂はいずれ悪霊に堕ちる定めにあり、処刑人によって抹消されるのが末路であった。

 だがあるとき、墓守が現れた。

 墓守は、不完全な死の状態にある魂を見つけ、導き、弔うことができる。そしてその能力を有するのは、墓守の血統のみである。

「だから」

 と、ジジイは言った。

「ユラ。お前は墓守になることはできない」



 Ⅰ. 人狼の街



「なにも疑わないでこんなこと、当たり前にできるみんなこそが狼に見えて、怖いんだ」

 学校裏の山を登った先、夕日に燃える街を展望できる崖に、ふたりの少女がいた。

 膝を抱え震える少女の背を、もうひとりの少女が撫でながら言った。

「私もだよ。ねぇ、もし、いつか。本当にここで生きていくのが、辛くなったら」

 そのときは。



「起立。気をつけ。皆さん、さようなら。また、明日」

 いつも通りの動きと挨拶で、授業は終わり、放課後がはじまる。

 きゃらきゃらと笑う声たちが、制服のプリーツスカートの裾をふわりと翻しながら、教室から出ていく。

 アイヴィも教科書とノートをバッグに詰めると、立ち上がった。

 高くなった視点。自然と、隣の席が視界に入る。今朝から、放課後まで。一度も誰も座らず、机上になにも置かれることのなかった、席。

 アイヴィはひとつに結んだ髪とプリーツスカートを翻し、玄関へと向かった。

 外靴を取り出すと一緒に、小さな紙が一枚、ひらりと落ちた。花弁のようにひらひらと中空を漂い、やがて着陸した紙を拾う。

「裏切り者」

 記された言葉は、誰かの声で脳裏で再生される。

 くしゃり、と握りしめた紙をバッグの中に放り入れ、アイヴィは学校を出た。

 夏が始まったばかりの空は青々としていて、太陽が燦々と眩しかった。

 そんな空に届かんとするように、煉瓦造りの鐘塔が高く聳え立っている。この街で最も背の高い建物だ。屋根には天使のラッパを模した細工が施されている。銀にも青にも見える大きな鐘は、今は静かにそこに佇んでいた。

「暑い」

 アイヴィはなけなしの涼を取り入れようと、手で仰いだり、シャツの胸元や半袖をはためかせてみた。スカートをはためかせるのだけは我慢した。女子として、なんとなく。

「あ」

 シャツの袖をはためかせていると、アイヴィはふと気づいた。腕の、半袖で覆われている部分と、晒されている部分。そこに境目がうっすら現れていた。そういえば、今年は日焼け止めを塗るのをすっかり忘れていた。

 別に、晒されている部分もこんがりってほどは焼けていない。

 けれど。

 半袖で覆われている部分が生っ白くてなんだかゴムがなにかでできた作り物みたいに見えた。

 きゅっとつねると赤い痕ができて、少しだけ安心して、少しだけ残念な気持ちになった。

「あ」

 母親から「帰りにパンを買ってきて」と頼まれていたことを思い出す。忘れると、きっとねちねちと怒られる。少しでも早く家に帰って、ベッドに横になりたかったけれど、仕方ない。

 アイヴィはため息を吐くと、大通りの商店街に向かった。

 朝、昼、晩、どの時間帯に行っても商店街は人で賑わっている。呼び込みの声も、談笑も、どうしようもない日常を醸し出していた。

 アイヴィはふと、八百屋に置かれていた真っ赤な林檎が目についた。床に臥せている祖母の好物だ。

「あの、林檎、ひとつください」

「はい、林檎ですね。今ならふたつ以上お買い求めいただけると、お安くできますよ」

「ふたつ以上買うと安くなるんですか」

「ええ、サービスです」

「はぁ」

 好物といえど病を患っている身だ、たくさんは食べられないだろう。いや、残った分はアイヴィや他の家族が食べればいいのだけれど。

「……ひとつで、いいです。お小遣いが、あまりないので」

 意味のない言い訳に店員は「学生さんですもんねー」なんて軽やかに相槌し、林檎を包んでくれた。

 そのときだった。

 のっぺりと背の高い影が、アイヴィの隣に現れた。

 アイヴィも、店員も、ぽかんとした。

 それは、この街では見たことがない男だった。

 屈まないと八百屋の屋根に頭がぶつかるほどに、アイヴィからは仰がないと顔が見えないほどに、背が高い。そしてとにかく黒い身なりをしていた。

 うなじのあたりでひとつに結ばれた黒の長髪は、濡れたカラスの羽のように艶やかだった。黒のシャツは逞しい胸に少し張っていた。すらりと長い足を包む黒のスラックスは柱みたいだった。黒の革靴は手に持ったらそこそこの武器になりそうなほどに大きかった。更にその人は、黒の外套まで肩にかけていた。見ているだけでも暑苦しいのに、汗ひとつかいていなかった。

 だが、なによりも目を引いたのは。男は、この世のものとは思えないほどに、美しい顔をしていた。

 雪のように白い肌。切れ長で鮮血みたいに赤い瞳。鼻すじは高く通り、唇の形さえもよかった。美術室にある彫像よりも生命力を感じるけれど、往来の人々と比べると温度が低く感じる。

 アイヴィよりはおそらく年上だろうが、二十代と言われても、三十代と言われても、はたまた六十代と言われたとしても、驚きはするも納得してしまいそうな年齢不詳っぷり。

 きっと、この世に悪魔がいたらこんな姿をしているのだろうと、アイヴィは思った。

 男は言った。

「人を探している」

 その低い声には、深い森の中のような静謐な響きがあった。

「ユラ・エトランゼという名に聞き覚えはねぇか」

「存じないですねぇ」

 と、八百屋の店員が先に答えると、男の目はアイヴィに向く。

「ない、です」

 アイヴィも口に妙な渇きを覚えながら、答えた。

「じゃあ、黒髪に黒い瞳、俺の肩ほどの背丈で、愛想のないぼんやりとした感じの男は。見てねぇか」

「見てませんねぇ」

「見てないです」

「そうか。もし見かけることがあったら、夜にあの鐘塔の下で待っていると伝えてもらえるか」

 男は視線と高い鼻先を、空を突く鐘塔に向ける。

 八百屋の店主が「ええ、いいですよぉ」と答えるのを聞いて、男は会釈し踵を返した。黒い外套がひらりと靡いた。

 アイヴィは母のおつかいでパン屋に行かなくてはいけなかった。

 でも、今、パンなんて見たら、窒息してしまいそうだった。なんだか、口の中が乾いて仕方なかったから。

 だから、アイヴィは気づけばその男を探して、追っていた。背負う教科書が詰まった鞄が重たかったけれど、少し駆け足で。

 そして、馴染みのある小さな公園で、アイヴィは男を見つけた。

 みっつしかない遊具の内のひとつであるブランコ。鉄の棒からふたつぶら下がっている椅子の右側に、長躯の男が座っている姿は、滑稽なほどに異質だった。

 男は膝の上に広げたハンカチの上で、こんがり焼けたバケットを切って、バターを塗って、トマトとレタスと茹でほぐした鶏肉を挟んでいた。ここで食事をする気なのだろうか。

 アイヴィは公園の中に入り、乾いた口腔をどうにか湿らせてから、男に声を掛けた。

「あの」

「お前は」

 わずかに顔を上げ、赤い瞳をおもむろに瞬かせた男は、「八百屋の」と呟いた。

「どうした。もしかして、ユラを見たのか」

「いえ、そのユラさん……という方は、見ていません、けど。あの、あなた、この街の人じゃないですよね?」

「ああ」

「じゃあ……」

 アイヴィは右手で、左手首をぎゅっと掴んだ。

「あと……今日を入れてあと六日以内に、この街を出た方がいいと思いますよ」

「なぜ?」

「六日後に、投票がありますから」

「街議員を決める選挙でもあんのか。だとしても、俺たちには関係ないように思うが」

「違います。人狼を追放するための投票です」

「人狼?」

「人の皮を被った狼のことです」

「それは分かるが。人狼を追放するための投票ってなんだ」

「この国には人狼がいるんです。それを野放しにしていたら人間が皆食べられて、街が滅びてしまうでしょう。そうならないために、毎週日曜日、人狼の可能性がある人間に国民全員で投票をして、最多得票者を追放をするんです。そのときこの国にいるすべての人が有権者で、投票の対象で、外部の人間は標的にされやすいですから」

 眉を顰めた男がアイヴィに尋ねた。

「その投票はいつから行っている」

「私が物心ついたときには、行われていました」

「食われた人間はいるのか」

「聞いたことはないです」

「お前の年齢は」

「十五です」

 男は怪訝と呆れを混ぜたような表情を浮かべた。

「つまり十五年以上、人狼に食われた人間がいないのにお前たちはその投票を行い、人狼と思しき者を追放しているってことか」

「……」

「この街に、本当に人狼なんているのか」

 アイヴィは答えた。

「いると断言することはできません。ですが、いないことの証明はできません」

 社会の授業で何度も語られた内容を、そのままなぞらえるように。

「たしかに長いこと人狼による被害は発生していませんが、もし本当に人狼がいたら。今週投票をしなかったことで、無辜の民が大勢殺されてしまったら。街全体が突然壊滅するよりも、週にひとり疑わしきを追放する方が、圧倒的によいことだと思いませんか」

「その疑わしきも無辜じゃないのか」

「疑われることをした方が悪いでしょう」

「それは、全部、お前の言葉か」

 アイヴィはわずかに目を見開いた。

 男はしばしアイヴィをじっと見つめたが、「まぁ、お前にあれこれ言ったところで仕方ねぇか」とそれ以上追求はせず、「それで」と新たな問いを重ねた。

「追放って。具体的にはなにをされるんだ」

「警察に指名手配されて、捕まります」

「そういえば、役場に女の指名手配写真と確保の文字がでかでかと張り出されていたな。よほどの悪事を働いたのかと思っていたが。もしかしてあれか?」

「……ええ、そうです。投票の翌日。月曜日の朝には指名手配し捕まえ、夜に処刑が行われます。そして火曜日の夕方にその死体を焼きます」

「そんな穴だらけの多数決で極刑か。ずいぶん、処刑人・・・の仕事が多そうな街だな」

「処刑は週に一度なので、特別仕事が多いことはないと思いますが」

 男はぽつりと「そういう街もあるか」と呟いた。

「まぁ、たしかに、それに巻き込まれたら厄介ではあるな。肝に銘じておこう……お前の名前を聞いてもいいか。俺はオリアスだ」

「アイヴィです」

「アイヴィ。親切な忠告、感謝する」

「いえ……お連れの方、見つかるといいですね」

「ああ」

 アイヴィは浅くお辞儀をして、公園を出た。間際ちらりと振り返ると、男はどこからともなくナイフを取りだし、サンドイッチを二つに切り分けていた。その両方をハンカチに丁寧に包んでいた。件の連れと食べるのだろうか。

 アイヴィは重い足取りで、商店街への道を引き返した。

 口の中はさっきよりもからからで、パン屋に行く気には到底なれなかった。このまま帰ってしまおうかとも思った。けれど、パンを買わないと、母に怒られてしまうから。

 今は少しでも、悪くないことがしたかった。いいことがしたかった。けれど、いいことをしようとすればするほど、アイヴィの身体は小さな穴がどんどんと開いていき、空気がすうすうと通り抜けていくようだった。



 夕方、アイヴィはパンを買って帰宅した。

 アイヴィがダイニングテーブルに置いたパン屋の袋の中を覗いて、母が言う。

「なんで、バケット。朝食用のパンはいつも食パンなのに」

「なんとなく」

「なんとなくって」

「パンしか言われなかったし」

「もう、屁理屈こねちゃって」

 母はぷりぷりと怒った。本気のお叱りではないから、まぁ、いいだろう。

「シチューでも作る? けれどこの暑さじゃあ、日持ちしないのよね」と母はエプロンのリボンを結び、キッチンに立つ。

 アイヴィもキッチンへ行き、コップに水を注いだ。

「そういえば」

「ん?」

「商店街で他所の人を見たよ。とても綺麗な顔をした人」

「ふぅん」

「人を探してたみたい」

「あんまり話していないでしょうね?」

「……うん」

「ならいいけれど。他所の人とはあまり関わっちゃ駄目よ。怪しまれて投票でもされたら……ただでさえ、あんたは投票勧告を受け取ったことがあるんだし。それに、ほら、今夜処刑されるのなんて、あなたと同じクラスの子でしょ」

 アイヴィは水を飲んだ。

「去年、よく遊んでなかったっけ? たしか、スミレちゃんだったかしら」

「大丈夫だよ、お母さん」

 アイヴィはグラスをシンクに置いた。

「今はちゃんと、投票行ってるし。スミレとも、去年は遊んでたけど。今年は、別のグループっていうの? そんな感じになって。全然、話してないから。それで疑われることはないと思うよ」

「そう、それならいいけれど……もしあの子が本当に人狼だったら、アイヴィが食べられていたかもしれないんだからね。あまり口出しはしたくないけれど。人付き合いは気をつけなさいよ」

「はいはい。あ、おばあちゃんに林檎も買ってきたから。夕飯の後にでも、すりおろしてあげて」

 アイヴィはシャツの胸元を寛げながら、ダイニングを出て、自室に向かった。やっと、ベッドに俯せに倒れ込んだ。枕に頭を埋めて、くぐもった声で、呟く。

「食べられた方が、よっぽどよかった」

 母に呼び出されるまでそうしていたから、シャツもスカートもいくらか皴ができてしまった。

 夕飯は結局、シチューだった。食事をしながら、父と母が談笑する。母が仕方なさそうに、アイヴィが食パンではなくバケットを買ってきた話をする。父はそれに「たまにはいいじゃないか」なんて相槌をする。

 食後には、母が祖母に林檎をすりおろした。余った林檎を、残りの家族で食べた。

 その最中に、外から鐘の音が聞こえた。

 時計を見れば、母お気に入りの丸みを帯びたふたつの針が、左開きの直角九〇度を形作っていた。

 月曜日の夜、九時。鐘の音は、処刑の合図。

 林檎を早々に食べ終え、洗濯物を干していた母が間延びした声で言う。

「アイヴィ、それ食べたらお風呂に入っちゃってね」

 アイヴィは、「うん」と返事をして、もしゃもしゃと林檎を食べた。甘くて、すっぱくて、瑞々しかった。

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