色を重ねて
筆を握る手は、思ったよりもずっとぎこちなかった。
指先に力が入りすぎて、線は震え、思うように描けない。
キャンバスの上で、色は滲み、形は歪む。
頭の中にあるイメージと、目の前の絵が、まるで別物みたいだった。
それでも、何度も描き直して、色を重ねて、ようやく完成させた絵。
君に見せると、しばらくの沈黙のあと、君がぽつりと呟いた。
「これは……イノシシ?」
小熊を描いたつもりだったのに、君にはそうは見えなかったらしい。
「小熊だけど」
そう言うのが精いっぱいだった。
君の表情を見ていたら、なんだか恥ずかしくなってくる。
努力したつもりだったのに、やっぱりうまく描けなかった。
「…ごめん」
君は申し訳なさそうに謝る。
その言葉を聞いて、ふっと息を吐く。
「いいよ。謝られる方が惨めになるから」
もっと上手く描けたらよかったのに。
君が笑ってくれるような絵を、描けたらよかったのに。
「ごめ…ごめん。でも、練習すればきっと上手くなるよ」
君は慌てたように言葉をつなぐ。
励まそうとしてくれているのは分かるけれど、頑張ってもきっと苦手なまま。
「そうかなぁ……」
視線はキャンバスに落としたまま。
滲んだ色の中に、自分の不器用さが浮かんで見える。
君は少し考えるような顔をしてから、不意に問いかけてきた。
「でも、どうして急に絵を?興味なかったよね」
その問いに、思わず息をのむ。
どうしてって、それは───
それは、君が絵を描くことが好きだから。
私は絵に興味はないし、得意でもない。
それでも、君が楽しそうに筆を動かす姿に、少しだけ憧れた。
君が描く世界が、私にはとても素敵に見えたから。
「好きな人が、絵を描くことが好きだから」
筆を握る理由なんて、本当はそれだけで。
絵を上手くなりたいっていうのは、ただの口実。
本当はただ、君と一緒にいる時間がほしかった。
君が楽しそうに絵を描く姿を見ているうちに、
なんだか私も、その世界に入りたくなった。
君と同じ時間を過ごしたくて。
君と同じ景色を描いてみたくて。
君の隣にいたくて。
君がどんな表情をするのか、見るのが少し怖くて。
君の目を見つめることができなかった。
「そうなんだ」
君の声は静かで、どこか遠くて。
私が期待していた答えではなかった。
心がすっと冷えていく気がした。
きっと、君が描く景色の中に、私の色は混ざっていない。
君の世界に、私はいないんだ。
それでも、もう少しだけこの筆を握っていたい。
君の隣で、君の世界に触れていたい。
たとえその世界に、私がいなくても。
もう少しだけ、君の世界の端っこにいさせてほしい。
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