第17話 家庭を築く日々
やがて、待望の第一子が、春の柔らかな日差しと共に、二人のもとへとやって来た。遥斗の「陽」と、琴葉の「葉」の字を取り、『陽葉(ひなた)』と名付けられた女の子。その、あまりにも小さく、尊い命の誕生は、二人の人生に、これ以上ないほどの喜びと、そして、想像を絶するほどの目まぐるしい変化をもたらした。
穏やかだった二人の生活のリズムは、完全に、この小さな新しい家族の王女様を中心に回るようになった。
深夜、家の静寂を切り裂くように、火がついたような赤子の泣き声が響き渡る。それが、新たな一日の始まりの合図だ。
「……俺が行く」
「……ううん、私がおむつを替えるから、遥斗君はミルクを……」
寝ぼけ眼をこすりながら、どちらからともなくベッドを抜け出し、体に染み付いた手順で、役割を分担する。その連携には、もはや言葉は必要なかった。
日中は、まるで戦場のようだった。ミルクを飲んだと思えば、すぐに吐き戻し、ようやく寝かしつけたと思えば、背中のスイッチが作動したかのように、再び泣き出す。琴葉は、一日中、陽葉を抱きしめ、あやし続け、自分の食事もままならない。社会から切り離されたような孤独感と、終わりの見えない寝不足に、心が折れそうになる瞬間が、幾度となく訪れた。
しかし、彼女が一人で全てを抱え込むことは、決してなかった。
遥斗は、仕事を終えると、一目散に家に飛んで帰ってきた。そして、当たり前のように、陽葉をお風呂に入れ、寝かしつけまでを代わってくれる。琴葉がようやく一息つき、ソファでうたた寝をしてしまっている間に、溜まった洗濯物を片付け、簡単な夜食まで作ってくれることもあった。
家中にふわりと漂う、甘いミルクの匂い。沐浴の時に触れる、陽葉の、頼りないほど柔らかな肌。そして、深夜に響き渡る、魂を揺さぶるような、力強い夜泣きの声。その全てが、二人の、新しい日常の音であり、匂いであり、感触だった。
ある夜。何をしても泣き止まない陽葉を抱き、琴葉は、途方に暮れていた。自分の不甲斐なさに、そして、どうすることもできない無力感に、彼女自身の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
その、震える背中を、遥斗の大きな手のひらが、そっと包んだ。
「代わるよ。琴葉は、少し休め」
「でも……!」
「俺たち、二人で親なんだから。どっちが、じゃない。二人で、やるんだ」
遥斗は、ぐずる陽葉を、その大きな腕の中へと、慣れた手つきで抱き取った。そして、子守唄を口ずさみながら、部屋の中を、ゆっくりと歩き始める。その、どこまでも頼もしい背中を見つめながら、琴葉は、遥斗という人と家族になれたことへの、感謝の念で、胸が一杯になった。
育児という、喜びと、そして、それと同じだけの大変さを伴うこの日々の中で、彼女は、遥斗の助けを得ながら、少しずつ、しかし確実に、母親として成長していく自分を感じていた。
珍しく、陽葉が、夜通しぐっすりと眠ってくれた、ある静かな夜。
二人は、ベビーベッドですやすやと寝息を立てる我が子の顔を、並んで覗き込んでいた。
「……大変、だね」
「ああ、大変だな」
「でも……」
「ああ」と、遥斗は、琴葉の言葉の続きを、引き取るように言った。
「でも、この時間が、何よりも、宝物だ」
彼は、そっと、琴葉の肩を抱き寄せた。
「これが、家族なんだよ、琴葉。大変な時に、二人で、支え合う。俺たちは、ちゃんと、家族をやってる」
その言葉に、琴葉は、ただ、静かに頷いた。
そうだ。私達は、ちゃんと、家族をやっている。
目の前で、天使のように眠る、愛しい我が子。そして、その隣で、どこまでも深く、温かい愛情で自分を支えてくれる、生涯の伴侶。
かつて自分が失った、温かい家庭。それを、今、自分たちの手で、確かに、築き上げている。その、揺るぎない実感が、琴葉の心を、至上の幸福感で満たしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます