第15話 本当の結婚式

 大学四年生の秋。キャンパスでは、卒業論文や最後の単位取得に追われる友人たちの、どこか慌ただしい空気が流れていた。しかし、遥斗と琴葉の心は、春に始まる新しい生活への期待と、今日という特別な日を迎えた喜びに満たされ、湖面のように、穏やかに澄み渡っていた。

 七月に公務員試験の合格が判明し、二人は、その足で役所へと向かい、婚姻届を提出した。そして今日、思い出の神社の秋祭りで、本当の夫婦として、成人婚の儀式に臨む。まだ学生でありながら、未来の全てを約束された二人のための、特別な舞台だった。


 祭りの日の朝。神社の控え室は、祝福の光と、喜びに満ちた、華やかな空気に包まれていた。数年前、同じ場所で、不安に震えながら白無垢に袖を通したのが、まるで遠い昔の出来事のようだ。鏡の前に座る琴葉の心には、もはや、一片の曇りもなかった。


 幾重にも重ねられた、祝福の白。ずしりと重いその絹の衣は、けれど、今は、遥斗と、彼を取り巻く全ての人々の愛情の重さのように感じられ、心地よい。白化粧を施され、唇に差された鮮やかな紅が、鏡の中の自分を、世界で一番幸せな花嫁なのだと、はっきりと告げていた。


 支度が整った頃、控えめに障子が開けられ、紋付袴に身を包んだ遥斗が姿を現した。あの日よりも、さらに逞しく、頼もしくなったその姿。彼は、息を呑むほどの美しさを纏った琴葉の姿に、一瞬、言葉を失い、そして、心の底から愛おしさが込み上げるように、深く、優しく微笑んだ。


 「……きれいだ、琴葉」

 「遥斗君も……素敵」

 「なんだか、不思議な気分だな。まだ学生なのに、こうして……」

 「うん。でも、すごく、すごく嬉しい」


 やがて、儀式の時が来た。神職に導かれ、二人は、思い出の参道を、一歩、一歩、踏みしめるように進んでいく。沿道には、二人の門出を祝うために集まった、数えきれないほどの人々の笑顔があった。高木家の両親、琴葉の祖父母、そして、この町の住人たち。彼らの眼差しには、「学生さんなのに、まあ立派だねえ」という、驚きと、それ以上の温かい賞賛の色が浮かんでいた。


 拝殿の前に設けられた舞台へと上がると、厳かな雅楽の生演奏が、境内の澄み切った秋空へと響き渡った。その、どこまでも神聖な音色が、二人の魂を洗い清めていくかのようだ。白無垢の裾が、歩を進めるたびに、サラサラと、心地よい衣擦れの音を立てる。それは、幸せの訪れを告げる、優しい調べのようだった。


 舞台の上から見渡す景色は、あの日と何も変わらない。けれど、琴葉の心は、あの時とは全く違う、穏やかで、満ち足りた幸福感に包まれていた。隣に立つ、遥斗の温かい手のひら。その温もりを感じながら、彼女は、この祝福を、全身で受け止めていた。

 両親の離婚という、孤独で、冷たい記憶。その、心の奥底にあった最後の氷が、この、圧倒的な祝福の熱によって、完全に、そして跡形もなく、昇華されていくのを感じた。社会人になる前に、学生である今のうちに、遥斗と本当の家族になる。それは、過去を完全に清算し、何一つ曇りのない、真っさらな状態で、未来へと踏み出すための、何より大切な儀式だった。


 同じ時、遥斗もまた、深い感動に包まれていた。

 幼い日、稚児婚で手を繋いだ、小さな女の子。高校生の秋、代役として隣に立った、儚げな少女。そして今、自分の隣で、世界一美しい花嫁として微笑む、生涯の伴侶。全ての記憶が、この瞬間に繋がっていた。あの日の、心の中だけの誓いを、今、こうして、本当の形で果たせる。その喜びに、彼の目頭は、知らず熱くなっていた。


 神事の祝詞が読み上げられ、三三九度の盃が、厳かに交わされる。

 儀式が滞りなく結びとなると、境内を埋め尽くした参列者から、割れんばかりの、温かい拍手が、嵐のように二人へと降り注いだ。

 その祝福の音に包まれながら、二人は、深く、そして晴れやかに、頭を下げた。


 まだ学生である二人が、この町で、この先ずっと生きていくという決意。その、若く、しかし、どこまでも真摯な覚悟が、人々の心を打ち、これ以上ないほどの祝福となって、二人を包み込んでいた。

 幼き日の縁は、今、この思い出の場所で、永遠の愛へと、その姿を変えたのだった。

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