第11話 地域との繋がり

 大学生活が始まり、最初の季節が巡った。若葉の瑞々しい香りが境内を包んでいた春は過ぎ、今は、命の盛りの濃い緑と、空気を震わせる蝉時雨が支配する、真夏のただ中にいた。遥斗と琴葉の生活は、穏やかな日常の繰り返しの中に、確かな絆を育んでいた。同じ講義を受け、昼休みには中庭で弁当を広げ、夕方には二人で並んで家路につく。その、どこにでもあるような恋人たちの風景が、琴葉にとっては、一日一日が宝物のように輝いて見えた。


 大学が長い夏休みに入った、八月の初旬。その日、遥斗は父である健一と、町の氏子たち数人に社務所へと呼び出されていた。議題は、間近に迫った神社の夏祭りについて。例年、町の若者たちが中心となって運営するその祭りで、遥斗は今年、子供神輿の巡行責任者という大役を任されることになったのだ。


 「これも、お前がこの町で生きていくと決めた、その覚悟の証だ。しっかり務めなさい」


 父からの、厳しくも期待に満ちた言葉に、遥斗は「はい」と、力強く頷いた。プレッシャーと共に、この町の一員として認められたことへの、熱い誇りが胸に込み上げてくる。


 その夜、遥斗から大役を任されたことを聞いた琴葉は、彼の誇らしげな、しかし少しだけ不安の滲む表情を見て、自らの心を決めた。これまで、高木家という温かい場所に、そして遥斗の優しさに、ただ守られているだけだった。けれど、これからは違う。私も、この人を支える力になりたい。彼が愛するこの町に、私も、根を下ろしたい。


 「遥斗君。私にも、何か手伝わせてくれないかな」


 その、ためらいがちながらも、確かな意志を宿した琴葉の申し出に、遥斗は驚いて目を見開いた。そして、すぐに、その表情は、今までにないほどの、深い喜びに満たされたものへと変わった。彼がどれほど、その言葉を待ち望んでいたか。琴葉は、彼の表情からそれを悟り、胸が熱くなった。


 それからの日々は、祭りの準備で目まぐるしく過ぎていった。町の公民館は、即席の作業場となり、連日、多くの人々で賑わいを見せる。部屋の隅々まで満たす、真新しい木の匂いや、竹を削る匂い。それは、祭りが近づいていることを告げる、特別な香りだった。


 琴葉は、最初こそ、その人の多さと活気に気圧されていたが、遥斗が常に気を配り、町の女性たちに紹介してくれたおかげで、少しずつ、その輪の中に溶け込んでいくことができた。子供たちに、飾り付けに使う切り紙の作り方を教えたり、お年寄りと一緒にお茶を飲みながら、昔の祭りの話を聞いたり。その一つ一つの交流が、彼女の心を豊かにしていく。


 特に、子供たちの、生命力に満ち溢れた賑やかな声は、琴葉にとって新鮮な驚きだった。離婚後の、静まり返った家で、一人で本を読むことが多かった彼女の世界には、存在しなかった音。最初は戸惑いながらも、いつしか、その純粋無垢な笑顔に、自然と笑みを返せるようになっている自分に気づく。


 遥斗は、責任者として様々な調整に駆け回りながらも、その視線は、常に琴葉の姿を追っていた。

 汗をかきながらも一生懸命に作業をし、ぎこちなく、けれど優しく子供たちと触れ合う彼女の姿。町の誰もが、彼女を「遥斗のいいお嫁さん」として、温かく、自然に受け入れている光景。その全てが、遥斗の胸を、誇らしさで一杯にした。自分が生まれ育ったこの故郷が、自分が愛する人を受け入れてくれている。その事実が、彼自身の、この土地への愛情を、より一層深いものへと変えていた。


 祭りの前日。全ての準備を終え、疲れ切った人々が公民館を後にしていく。遥斗と琴葉も、二人並んで、夕暮れの道を歩いていた。昼間の猛暑が嘘のように、涼やかな風が頬を撫でる。


 「遥斗、琴葉ちゃん!」


 不意に後ろから声をかけられ、振り返ると、近所に住むおばあさんが、満面の笑みで手を振っていた。


 「二人とも、本当にお疲れ様。あんたたちがいるなら、この町も安泰だねえ。本当にお似合いの夫婦だよ」


 その、何のてらいもない祝福の言葉に、琴葉は顔を真っ赤にして俯いてしまう。遥斗は、照れながらも、「ありがとうございます」と、はっきりと頭を下げた。


 おばあさんと別れた後、遥斗は、琴葉の手に、そっと自分の手を重ねた。


 「ありがとう、琴葉。お前がいてくれて、本当によかった」


 その、しみじみとした言葉に、琴葉は顔を上げた。夕日に照らされた彼の横顔は、少しだけ大人びて見えた。琴葉は、握られた手に、そっと力を込めて応える。

 高木家という家族。そして、この町という、もう一つの大きな家族。私は、もう、一人ではない。その確かな実感と共に、琴葉の心は、夏の夕暮れのような、穏やかで、満ち足りた幸福感に包まれていた。

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