第10話 初めてのデート

 あの朝の光の中で一つになってから、二人の間の空気は、より一層、甘く、穏やかなものへと変わっていた。同じ家で暮らし、同じ食卓を囲み、夜には隣の部屋で互いの気配を感じながら眠りにつく。その、あまりにも満たされた日常は、琴葉がかつて失ったもの全てを、補って余りあるほどの幸福を彼女に与えてくれていた。


 大学の入学式を数日後に控えた、ある晴れた週末。朝食の席で、遥斗が何気ない口調で切り出した。


 「なあ、たまには、街に出てみないか? 電車に乗って、少し大きな駅のあたりをぶらぶらするだけでも、気分転換になるだろ」


 その提案に、琴葉の心は、期待と不安とで小さく揺れた。遥斗と二人で出かける。それは、普通の恋人たちが当たり前のように享受する、甘い響きを持った「デート」というものだ。その事実に胸が高鳴る一方で、彼女の脳裏には、雑踏の喧騒や、見知らぬ人々の無遠慮な視線が、不穏なイメージとなって浮かび上がる。しかし、隣で期待に満ちた顔でこちらを見ている遥斗を、がっかりさせたくはなかった。


 「……うん、行きたい」


 琴葉が、少しだけ勇気を振り絞ってそう答えると、遥斗は「よかった」と、心の底から嬉しそうに微笑んだ。


 電車に揺られて一時間ほど。見慣れた、のどかな田園風景が、次第に密集した建物の群れへと姿を変えていく。そして、目的の駅に降り立った瞬間、琴葉は、暴力的なまでの音と情報の洪水に、思わず足をすくませた。

 ひっきりなしに発着する電車の轟音、駅員のアナウンス、無数の人々の話し声、そして、どこからともなく流れてくるけたたましい音楽。それらが渾然一体となって、彼女の耳に叩きつけられる。駅に直結した巨大なショッピングモールに足を踏み入れると、その感覚はさらに増幅された。きらびやかなショーウィンドウ、目に痛いほどの照明、そして、目的もなく行き交う、夥しい数の人、人、人。


 琴葉は、自分がまるで、大海に投げ出された木の葉のように、小さく、無力な存在に思えた。人々の視線が、突き刺さるように感じられる。自然と足はすくみ、遥斗の数歩後ろを、俯きがちに歩くことしかできなくなっていた。


 その、琴葉の微かな変化を、遥斗は見逃さなかった。彼は、ふと立ち止まると、黙って彼女の方へと手を差し出した。琴葉が、戸惑いながらその手を見つめていると、遥斗は、少し強引に、しかし優しい手つきで彼女の指を取り、自らの指と、しっかりと絡め合わせた。


 その瞬間、琴葉の世界から、あれほどうるさかった雑音が、すうっと遠ざかっていくような、不思議な感覚に襲われた。

 骨張っていて、大きくて、日に焼けた、彼の手。その、確かな温もりが、冷たくなっていた琴葉の指先から、腕を伝い、不安で凍てついていた心の芯へと、ゆっくりと、しかし確実に、染み渡っていく。まるで、荒れ狂う嵐の中で、たった一つの、安全な港を見つけたかのようだった。


 「大丈夫。俺がいるから」


 騒音の中でも、不思議とクリアに聞こえる、彼の穏やかな声。遥斗は、彼女を自分のすぐ隣へと引き寄せると、まるで盾になるかのように、人波をかき分けながら、ゆっくりと歩き始めた。

 その広い背中を見ていると、琴葉の中から、あれほど頑なだった不安が、少しずつ解消されていくのがわかった。この人に、頼ってもいいのだ。この人の隣でなら、きっと大丈夫なのだ、と。


 遥斗が彼女を連れて行ったのは、モールの最上階にある、大きな書店の片隅に設けられたカフェだった。窓から街並みを見下ろせる、喧騒から切り離された、静かな空間。二人は、窓際の席に並んで座ると、コーヒーを飲みながら、他愛ない言葉を交わした。

 都会の、あの耳をつんざくような喧騒。そして、今、二人の間に流れる、この穏やかで、満ち足りた時間。その、あまりにも鮮やかなコントラストが、琴葉の心に、遥斗という存在の大きさを、改めて深く刻みつけていた。


 帰り道。夕暮れ色の電車に揺られながら、琴葉は、疲労感と幸福感が入り混じった心地よさの中で、遥斗の肩に、そっと頭を預けていた。

 今日のデートは、都会の華やかさを楽しむためのものではなかった。

 彼と共にいることで、自分の弱さと向き合い、そして、それを乗り越えるための、大切な一歩だったのだ。繋がれた手の温もりと共に、二人の信頼関係は、また一つ、確かな形を結んでいた。

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