第4話 代役の依頼
祭り前日。境内は、明日の本番を待つばかりの、静かな高揚感に満ちていた。ほとんどの準備は終わり、残すは細々とした最終確認だけとなっていた。遥斗と琴葉は、授与所で頒布されるお守りの数を数え、種類ごとに木箱へと納める作業を任されていた。数日前までの、ぎこちない沈黙が嘘のように、二人の間には穏やかで、途切れることのない会話が流れている。
「この縁結びのお守り、可愛いね」
「ああ、それは人気なんだ。毎年、すぐに無くなる」
「……そっか」
琴葉が、二つの人形が赤い糸で結ばれた意匠のお守りを、愛おしそうに指先で撫でる。その横顔に浮かぶ柔らかな微笑みを見て、遥斗の胸は温かいもので満たされた。この数日間で、彼女の表情は驚くほど豊かになった。それは、遥斗が何よりも望んでいた変化だった。このまま、穏やかな時間がずっと続けばいい。彼は、心の底からそう願っていた。
その、平和な空気を破るように、授与所の障子がすっと開かれた。そこに立っていたのは、遥斗の父、健一だった。普段と変わらぬ、背筋の伸びた厳格な佇まい。しかし、その表情には、普段のそれとは違う、某种の切迫感が浮かんでいる。
「遥斗、琴葉さん。少し、いいだろうか。社務所まで来てほしい」
その、有無を言わせぬ低い声に、遥斗は背筋を伸ばした。父が自分たち二人を、揃って呼び出す。ただ事ではない、という予感が胸をよぎる。琴葉もまた、健一の纏うただならぬ雰囲気に、小さな不安を覚えていた。
社務所へと向かう短い道のり。すぐ傍の広場からは、明日のために最終調整を行う囃子方の、陽気な笛や太鼓の音が響いてくる。それは、町全体が浮き足立つような、祝祭の音色。しかし、その明るい響きとは裏腹に、琴葉の心には、先ほど健一から向けられた真剣な眼差しが重くのしかかっていた。
社務所の中は、外の喧騒が嘘のように静まり返り、ひんやりとした空気に満たされていた。長年焚き締められたのであろう、白檀の香りが微かに鼻を掠める。部屋の中央には、健一がすでに正座をしており、二人に座るよう、無言で畳を示した。
遥斗と琴葉が緊張した面持ちで座ると、健一は深く一つ息をつき、重々しく口を開いた。
「単刀直入に言う。明日、成人婚を執り行う予定だった夫婦が、身内に不幸があり、急遽、来られなくなった」
その言葉に、遥斗は息を呑んだ。成人婚は、この秋祭りの最も中心となる神事だ。それを今から中止にするなど、考えられない。健一は、そんな息子の心中を見透かすように、言葉を続けた。
「この儀式は、単に夫婦を祝うだけでなく、町の安寧と子孫繁栄を祈願する、大切な願掛けでもある。中止にはできん。そこで……代役を立てることにした」
健一の、射抜くような視線が、まっすぐに二人へと注がれる。嫌な予感が、確信へと変わっていく。
「遥斗、そして琴葉さん。明日の成人婚で、夫婦の代役を、務めてはもらえないだろうか」
その言葉が、琴葉の耳に届いた瞬間。世界から、音が消えた。
遠くで鳴り響いていたはずの、陽気な祭り囃子が、ぴたりと止む。健一の真剣な表情が、ぐにゃりと歪む。遥斗の心配そうな顔が、遠ざかっていく。
「結婚」「夫婦」――― その言葉が、過去のトラウマを呼び覚ます、呪いの引き金となった。
心臓が、肋骨を内側から叩きつけるかのように、激しく脈打ち始める。どく、どく、と、自分の耳の奥で鳴り響くその音が、恐ろしくてたまらない。喉がカラカラに渇き、呼吸が浅くなる。薄暗い社務所の、太く、冷たい木の柱の質感が、やけに生々しく目に映った。
握りしめた手のひらに、じっとりと、嫌な汗が滲みだす。それは、父が家を出て行った夜、母が一人で泣いていた部屋の、あの冷え切った空気の感触と、よく似ていた。
恐怖。戸惑い。どうして、私が。なぜ、今。思考がまとまらない。
「父さん」
遥斗の、静かだが、凛とした声が、琴葉を混乱の淵からわずかに引き戻した。見ると、彼は健一に向かって、深く頭を下げようとしていた。琴葉の、血の気の引いた顔、小刻みに震える指先。その全てを、遥斗は一瞬で見抜いていたのだ。彼女が、今、どれほどの恐怖に苛まれているのかを。
「そのお話は、俺たちには、あまりにも」
「待って」
遥斗が断りの言葉を口にしようとした、その時。か細く、けれど確かな意志を宿した声が、それを遮った。声の主は、俯いていたはずの、琴葉だった。
遥斗が驚いて彼女を見ると、琴葉は唇を固く引き結び、滲む汗で滑る手のひらを、強く、強く握りしめていた。その瞳には、恐怖と戸惑いの色と共に、何かと必死に戦おうとする、小さな光が宿っていた。
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