第3話 親族の温かい眼差し
あの夜、遥斗の家からの帰り道は、まるで夢の中を歩いているようだった。重ねられた手のひらの温もり、彼の真摯な眼差し、そして「もう一度、俺とやり直さないか?」という、あまりにも力強い言葉。それらが琴葉の心の中で何度も反響し、そのたびに胸が熱くなる。十年という歳月を経て、再び繋がった縁。それは、かつての淡い憧れとは違う、確かな重みと熱を持った、現実の始まりだった。
翌日から、二人の新しい日常が始まった。約束通り、祭り当日までの数日間、琴葉は遥斗と共に神社の準備を手伝うことになった。朝、遥斗が家の前まで迎えに来て、二人で並んで神社へと向かう。まだぎこちない沈黙が落ちることもあるが、それは気まずいものではなく、互いの存在を確かめ合うような、穏やかで優しい時間だった。
境内は、祭り本番を間近に控え、日に日に活気を増していた。遥斗の同級生や後輩、そして地域の人々が入り混じり、あちらこちらで賑やかな声が飛び交っている。内向的な琴葉にとって、その輪の中に入っていくのは、本来であれば高い障壁のはずだった。しかし、常に半歩前を歩き、彼女を気遣う遥斗の存在が、その壁をそっと取り払ってくれる。
「こっち、手伝ってくれるか」「ああ、すぐ行く。橘さん、ここは危ないから少し下がってて」
遥斗は、自然な仕草で琴葉を庇い、周囲にも臆することなく彼女を紹介した。「幼馴染なんだ」と、少し照れたように、しかしはっきりと告げる。そのたびに、地域のおばあさんや、遥斗の友人たちが、好奇心と温かさがない混ぜになった眼差しを彼女に向けた。「まあ、遥斗にこんな綺麗な幼馴染がいたのかい」「隅に置けないねえ」などとからかわれると、琴葉は俯いてしまうが、嫌な気はしなかった。むしろ、自分がこの町の風景の一部として、受け入れられていくような感覚に、戸惑いながらも心地よさを覚えていた。
その様子を、少し離れた場所から、遥斗の母である美佐子が満足げに眺めている。時折、熱いお茶や手作りの菓子を差し入れにやって来ては、「琴葉ちゃん、無理しないでね」「遥斗、ちゃんと琴葉ちゃんのこと見てあげなさいよ」と、母親らしい気遣いを見せた。その屈託のない優しさに触れるたび、琴葉の心の中で、かつて両親の間にあった冷たい溝によって凍てついていた「家族」というものへの不信感が、春の雪解け水のように、少しずつ溶けていくのを感じていた。遠くから聞こえてくる祭り囃子の練習の音色が、その温かい光景のBGMのように、心地よく耳に響く。
準備が三日目を迎えた、夕暮れ時。
その日、二人は拝殿の柱を乾いた布で磨き上げるという、地味だが根気のいる作業を任されていた。他の人々の喧騒から少しだけ離れた場所で、二人きりの静かな時間が流れる。西日が差し込み、磨き上げられた木の表面がきらりと光を反射した。
「……楽しい」
不意に、琴葉がぽつりと呟いた。遥斗が驚いて顔を向けると、彼女ははにかむように微笑んでいた。それは、これまで遥斗が見たことのない、心の底からの、柔らかく、幸せそうな笑顔だった。
「こういうの、初めてだから。みんなで何か一つのものを作るって……温かいんだね」
その笑顔に、遥斗は心を奪われた。彼女がずっと抱えてきたであろう孤独と不安。それが、この数日間で少しずつ癒え、今、目の前で花開こうとしている。その奇跡のような瞬間に立ち会えたことが、たまらなく愛おしかった。
遥斗は、手にしていた布をそっと置くと、琴葉の腕を優しく引いた。驚いて目を見開く彼女の顔が、ゆっくりと近づいてくる。心臓が、大きく、高鳴った。
そして、ごく自然に、遥斗の唇が、彼女の唇にそっと重ねられた。
初めての、口づけ。
驚きで固まった琴葉の唇に触れたのは、想像していたよりもずっと柔らかく、温かい感触だった。頬を撫でる秋風の、ひんやりとした心地よさが、唇に集まった熱を、より一層際立たせる。ほんの数秒。けれど、永遠のようにも感じられる時間。
ゆっくりと唇が離れると、琴葉は顔を真っ赤にして俯いてしまった。嬉しい。でも、恥ずかしい。心臓は今にも張り裂けそうで、どうしていいか分からない。羞恥心と、今まで感じたことのないほどの幸福感が、胸の中で渦を巻いていた。
「……ごめん。つい」
遥斗が、気まずそうに頭を掻く。その声も、少しだけ上ずっていた。
琴葉は、何も言えずに、ただ小さく首を横に振った。嫌じゃなかった、と伝えるだけで、精一杯だった。
茜色に染まる空の下、二人の間には、言葉にならない、けれど確かな何かが生まれていた。それは、幼い日の約束でも、再会の驚きでもない。これから二人で育んでいく、恋という名の、温かい温かい光だった。
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