君とつむぐ、家族の縁(えにし)

舞夢宜人

第1話 秋祭りの再会

 空の燃えるような茜色が、西の稜線からゆっくりと深淵の紺青へとその身を沈めていく。霊峰富士の雄大なシルエットが、夕闇の幕が下りる前のわずかな間、荘厳な影絵となって町を見下ろしていた。乾いた秋風が神社の境内を吹き抜け、掃き清められた地面に残る数枚の落ち葉を弄ぶ。カサ、カサカサ、と立てるその心許ない音は、夏の残滓が完全に消え去り、冬の気配がすぐそこまで訪れていることを告げていた。


 高木遥斗は、手にしていた竹箒の動きをふと止め、滲んだ汗を手の甲で無造作に拭った。吐き出された息が、夕暮れの冷たい空気の中で白く濁っては掻き消える。高校生活、最後の秋祭り。その言葉が胸の内で反響するたび、形容しがたい感傷が心の柔らかな部分を締め付けた。三年間、当たり前のように繰り返してきたこの祭りの準備も、他愛ないことで笑い合った仲間たちとの時間も、もう二度とは戻らない、記憶の彼方へと過ぎ去っていく。


 「遥斗、悪い! そっちの提灯、もう少しだけ右に寄せられるか?」


 拝殿の軒下、脚立の上から張り上げられた同級生の声に、遥斗は感傷の海から引き戻された。「おう、今行く」と短く応え、感傷を振り払うように一歩を踏み出す。神社の氏子総代を父に持つ彼にとって、この祭りは生活の一部であり、身体に染み付いた原風景そのものだ。しかし、今年の境内は例年になく活気が薄い。三年生の大半が受験を理由に準備から離脱し、残された後輩と数人の有志だけでは、明らかに人手が足りていなかった。やり遂げなければならないという責任感と、刻一刻と迫る時間との間で、遥斗の心には静かな焦燥が波紋のように広がっていた。


 その時だった。境内を渡る風が、彼の耳に一つの音色を届けたのは。

 ひょう、ひゃらら、と鳴り渡る、雅やかでどこか物悲しい篠笛の旋律。祭りのために結成された囃子方の練習の音だ。厳かで、それでいて人の心を慰撫するようなその響きが、遥斗のささくれ立った心をわずかに和らげていく。


 同じ音色に、橘琴葉は、神社の入り口へと続く長い石段の下で、雷に打たれたかのように立ち尽くしていた。

 賑やかな場所は本質的に苦手なはずだった。祭りを目前にしたこの場所に近づくことなど、普段の彼女であれば考えられなかっただろう。しかし、遠くから聞こえてきたその懐かしい音色は、抗いがたい力で彼女の足をここまで運ばせたのだ。


 風が運んでくる、雨上がりの後のような湿った土の匂い。その匂いが引き金となり、雅楽の音色が鍵となって、琴葉の胸の奥深く、固く閉ざされていた記憶の扉を、軋ませながらこじ開けていく。


 ――― 小さな手に引かれ、懸命に登ったこの石段。

 ――― 慣れない白無垢の重さ。

 ――― 隣に立つ、少し照れたような紋付袴姿の男の子。


 そうだ、稚児婚。

 満七歳の年、この神社で、仮初めの夫婦となる儀式に参加したのだ。両親がまだ共に笑い合っていた頃。結婚というものが、ただひたすらにキラキラと輝いて見えた、遠い日の記憶。

 あの頃、隣で手を握ってくれた男の子は。

 遥斗、君。高木、遥斗君。

 転校で離れ離れになり、寂しい思い出として心の隅に追いやっていたはずの彼の名前が、鮮やかな輪郭を持って蘇る。


 両親の離婚という冷たい現実が、彼女の中から結婚への純粋な憧れを奪い去り、代わりに複雑な感情を植え付けて久しい。それなのに、今、この瞬間に蘇った記憶は、あまりにも純粋で、温かくて、琴葉の心を激しく揺さぶった。

 あの時の彼は、今、どこにいるのだろう。

 いや、知っている。同じクラスに、彼がいることを。けれど、昔の面影を探すこともなく、ただのクラスメイトとして、言葉を交わすこともなく過ごしてきた。気づかないふりをしていた、いや、本当に気づいていなかったのかもしれない。過去の記憶に、無意識に蓋をしていたから。


 琴葉は、何かに憑かれたように鳥居をくぐり、境内へと足を踏み入れた。目的は一つ。彼を探すこと。そして、確かめること。この記憶が、自分だけの幻ではないということを。

 提灯を取り付けたり、注連縄を張り替えたりと、懸命に準備を進める若者たちの集団。その中心に立ち、仲間たちに的確な指示を飛ばす青年の姿が、彼女の瞳に飛び込んできた。

 夕日を背にしたその姿は逆光となり、表情までは窺えない。けれど、水泳部で鍛えられたであろう引き締まった体躯、少し癖のある黒髪、その頼りがいのある横顔。間違いない。あの日の、少し背の低い男の子が、こんなにも立派に成長した姿だ。


 遥斗は、提灯の飾り付けを手伝い終え、持ち場である掃き掃除に戻ろうと身を翻した。その瞬間、まっすぐに自分に向かって歩いてくる一人の少女の存在に気づいた。長く艶やかな黒髪、白いブラウスにベージュのロングスカート。どこか憂いを帯びた大きな瞳が、戸惑いの色を浮かべながらも、確かに自分を捉えている。

 クラスメイトの、橘琴葉だ。物静かで、ほとんど話したこともない彼女が、なぜ自分に?

 遥斗が驚きに言葉を失っていると、彼女は数歩手前で足を止め、震える唇を、意を決したように開いた。


 「……あの、高木君、だよね?」


 記憶の底から手繰り寄せるような、か細く、けれど芯のある声。その声に、遥斗は虚を突かれた。


 「あ、ああ。そうだけど……橘さん?」


 「覚えて、るかな。ううん、覚えてないかもしれないけど……昔、この神社で……」


 琴葉は必死に言葉を紡ぐ。彼女の真剣な眼差しに、遥斗は目の前の少女と、記憶の奥底にある、転校していった幼馴染の姿を重ね合わせていた。そういえば、彼女も、この町に戻ってきていると風の噂で聞いたことがあった。


 「……稚児婚、一緒にしたの、私なんだけど」


 その言葉が、雷となって遥斗の脳天を撃ち抜いた。忘れるはずもない。自分にとって、淡い初恋と、初めての喪失の記憶。目の前にいる、どこか儚げな文学少女が、あの快活だった幼馴染と、今、確かに繋がった。


 「……橘さん、だったのか。そっか、橘さん……」


 驚きと懐かしさで、遥斗はただ、彼女の名前を繰り返すことしかできなかった。

 十年近い時を経て、止まっていた二人の時間が、雅楽の音色が響く夕暮れの境内で、再び静かに、そして確かに動き始めた。夕闇に完全に溶け込んだ富士のシルエットが、まるでこの運命の再会を、祝福するかのように静かに見守っていた。

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