第2話 蘇る記憶と再スタートの告白

 夕闇に沈んだ境内で、二人はしばらくの間、言葉を失くして立ち尽くしていた。遠くで練習を続ける雅楽の音色が、まるでこの奇跡的な再会を祝福するかのように、静かに響き渡っている。十年という、あまりにも長い歳月。それがもたらした隔たりと、幼い日の記憶が繋がったことによる高揚とが入り混じり、互いに何をどう話すべきか、その糸口を見つけられずにいた。


 先に沈黙を破ったのは、遥斗だった。彼は、まだどこか信じられないといった表情で、目の前の少女を見つめた。物静かで、儚げな印象のクラスメイト。快活で、いつも笑っていた幼馴染の面影は、その憂いを帯びた大きな瞳の奥深くに、ようやく見出すことができる。


 「本当に……橘さん、だったんだな。全然、気づかなかった。ごめん」

 「ううん、私も。私も、気づいてなかったから。……ううん、気づかないふりをしてた、だけかもしれない」


 琴葉はかぶりを振り、消え入りそうな声で呟いた。彼女の言葉には、自分自身でも整理のつかない複雑な感情が滲んでいる。遥斗は、彼女が何か重いものを背負っていることを、その声色から敏感に感じ取った。


 「立ち話もなんだし……よかったら、うちに来ないか? すぐそこなんだ。母さんも、きっと驚く」

 「え……でも、お邪魔じゃ」

 「邪魔なもんか。十年ぶりの再会なんだから」


 遥斗は少し強引に、しかし有無を言わせぬ優しさでそう言うと、琴葉の手を引いた。触れた指先が、秋の夜気ですっかり冷え切っている。その冷たさが、遥斗の胸にちくりとした痛みを走らせた。彼女が転校していった日、何も言えずにただ見送ることしかできなかった、あの日の寂しい記憶が不意に蘇る。


 高木家の玄関をくぐると、温かい夕食の匂いが二人を迎えた。遥斗に促されるままリビングへと通された琴葉は、その生活感に満ちた温かい空間に、知らず緊張を少しだけ解きほぐす。やがて、エプロン姿の遥斗の母、美佐子が「おかえりなさい」と顔を出し、息子の隣に立つ見慣れぬ少女の姿に、ぱちくりと目を瞬かせた。


 「あら、遥斗、お客さん? ……まあ、綺麗な子。クラスメイト?」

 「母さん、覚えてるかな。橘さんだよ。昔、よくうちにも遊びに来てた」

 「橘さん……? あ……! もしかして、琴葉ちゃん!?」


 美佐子の声が、喜びに裏返る。まさか、と何度も繰り返しながら琴葉に駆け寄ると、その手を固く握りしめた。その屈託のない歓迎に、琴葉は戸惑いながらも、胸の奥に温かいものがじわりと広がるのを感じていた。


 「まあ、こんなに大きくなって……! お父様もお母様も、お元気?」


 その何気ない一言に、琴葉の表情が微かに曇る。遥斗はそれを見逃さなかったが、美佐子は気づかぬまま、興奮した様子でリビングの奥へと消えていった。


 「ちょっと待っててね、いいものを見せてあげるから!」


 やがて、少し埃をかぶった分厚いアルバムを抱えて戻ってきた美佐子は、それをテーブルの上に広げた。一枚一枚ページをめくるたび、色褪せた写真たちが、過ぎ去った日々の記憶を呼び覚ましていく。そして、あるページで、美佐子の指がぴたりと止まった。


 「ほら、見て。これよ、これ」


 差し出された一枚の写真。それは、他のものよりも少し大きく引き伸ばされ、丁寧に台紙に貼られていた。

 そこに写っていたのは、小さな紋付袴姿の遥斗と、慣れない白無垢に身を包んだ、七歳の琴葉だった。二人とも緊張で顔をこわばらせながらも、その瞳は未来への期待に満ちて、キラキラと輝いている。


 琴葉は、その写真から目が離せなくなった。指先でそっと触れる。ざらりとした、古びた印画紙の質感が、記憶をより一層、鮮明なものへと変えていく。そうだ、この日、自分は確かに幸せだった。結婚というものが、この世で最も美しく、尊いものだと信じて疑わなかった。


 ――― それなのに。


 写真の中の無垢な笑顔と、今の自分の心が、あまりにもかけ離れている。その残酷な落差に、琴葉の瞳が、堰を切ったように涙で潤んだ。光を反射して、宝石のようにきらめく雫が、ぽろりと頬を伝う。


 「ごめんなさい……私……」


 突然泣き出した琴葉に、美佐子も遥斗も狼狽えた。美佐子が慌てて席を外す。リビングには、気まずい沈黙と、琴葉の静かな嗚咽だけが残された。


 「ごめん、母さんが、余計なことを……」

 「ううん、違うの」


 琴葉は、涙を拭いながらかぶりを振った。そして、意を決したように、遥斗の目をまっすぐに見つめた。


 「私の両親、離婚したの。私が小学校高学年の時に。……理由は、すれ違い。建築家の父は仕事が全てで、ほとんど家にいなかった。母は、きっと寂しかったんだと思う。だから、私にとって、結婚って……怖いもの、なの」


 それは、彼女が誰にも打ち明けられずに、ずっと一人で抱え込んできた、心の最も深い場所にある傷だった。


 「写真の中の私は、幸せな結婚を夢見てた。でも、現実は違った。だから……この写真を見ると、苦しくなる。一番大切なのは、きっと、一緒にいる時間なのに。それが叶わないのなら、夫婦でいる意味なんて……」


 そこまで言うと、琴葉は唇を噛み締め、俯いてしまった。

 遥斗は、ただ黙って、彼女の告白を聞いていた。彼女が抱えてきた痛みの深さを、その震える声から、痛いほどに感じ取っていた。彼女の理想、そして絶望。その全てを、彼は受け止めたいと、心の底から思った。


 遥斗は、そっと手を伸ばし、テーブルの上に置かれた彼女の手に、自分の手を重ねた。琴葉の肩が、びくりと震える。


 「橘さん」


 静かな、しかし、揺るぎない声だった。琴葉が、おそるおそる顔を上げる。


 「もう一度、俺とやり直さないか?」


 「……え?」


 「橘さんの過去も、その怖さも、全部。全部俺に預けてくれないか。俺が、絶対に寂しい思いはさせない。毎日、一緒にいる。一緒に笑って、一緒に悩んで、一緒に飯を食う。そういう、当たり前の時間を、俺と、もう一度やり直さないか?」


 それは、友達から始めよう、などという生半可な言葉ではなかった。彼女の魂の叫びに、魂で応えるような、あまりにも真摯で、力強い告白だった。

 琴葉は、ただ遥斗の目を見つめることしかできない。けれど、重ねられた彼の手のひらから伝わる温もりが、冷え切っていた彼女の心臓を、ゆっくりと、しかし確実に溶かしていく。それは、告白の後に訪れるという、心がじんわりと温かくなるような、不思議な感覚だった。


 返事の代わりに、琴葉は、小さく、しかし深く、一度だけ頷いた。

 十年ぶりに再会した二人の歯車が、この瞬間、未来に向かって、確かに噛み合ったのだった。

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