第2話 日常という名の違和感

 階段を下りながら、俺は自分の足音に違和感を覚えた。


 三年間、石畳や荒野を歩き続けた足が、今は畳やフローリングを踏んでいる。音が軽すぎる。重装備を身に着けていない体が、妙にふわふわして落ち着かない。


「おはよう、宗助。今日も早いのね」


 母が振り返る。エプロン姿の彼女は、俺が異世界にいた三年間など知るはずもない。俺にとっては久しぶりの母の顔だが、母にとっては昨日も見た息子の顔でしかない。


「……ああ、おはよう」


 ぎこちなく挨拶を返す。どう接していいかわからない。三年前の俺は、もっと気軽に母と話していたはずだ。だが今の俺には、その感覚が戻ってこない。


「あら?声変わりした?少し大人っぽくなったみたい」

「そう……かな」


 気づかれるはずだ。体は成長していないが、声や雰囲気は確実に変わっている。三年間の戦闘と修羅場が、俺を別人にしてしまった。


「でも相変わらず朝は弱いのね。ほら、ちゃんと食べなさい」


 テーブルに並ぶ朝食。焼き鮭、味噌汁、白米、海苔。見慣れたはずの光景なのに、なぜか遠い昔のもののように感じる。


 異世界では、こんな贅沢な食事は滅多に取れなかった。固いパンと水、時には野草や木の実で飢えを凌いだこともある。それに比べれば、これは王侯貴族の食事だ。


「いただきます」


 箸を手に取る。その瞬間、手が止まった。


 これは武器じゃない。殺傷能力もない、ただの食事用具だ。だが俺の手は、無意識に武器としての握り方をしていた。


「どうしたの?」

「いや、なんでもない」


 慌てて正しい持ち方に直す。母に怪しまれるわけにはいかない。


 食事を終え、制服に着替える。鏡に映る自分は、確かに高校生だった。だが内側に秘められた力は、とてもじゃないが十七歳のものじゃない。


 学校への道のりも、すべてが違って見えた。


 通学路の角々で、俺は無意識に警戒していた。曲がり角では敵の奇襲を警戒し、人混みでは逃走経路を確認し、高い建物を見れば狙撃手の位置を考える。


 平和な住宅街なのに、まるで戦場にいるような緊張感だった。


「宗助!」


 声をかけられて振り返ると、見覚えのある顔があった。同じクラスの田中だ。


「おう、田中」


 名前を呼んだ瞬間、田中が妙な顔をした。


「えっ、なんで苗字?いつものように『タナ』でいいじゃん」

「あ……ああ、そうだな。タナ」


 しまった。三年前の俺とこいつの関係性を忘れている。どの程度親しかったのか、どんな話し方をしていたのか、記憶が曖昧だ。


「なんか今日、雰囲気違わない?大人っぽいっていうか……」

「そうか?」

「うん。なんか、近寄りがたいオーラがあるっていうか」


 やはり気づかれるか。俺は努めて表情を緩めようとしたが、それもぎこちない。


 学校に着くと、さらに違和感は増した。


 教室に入った瞬間、俺は無意識に全体を見回していた。窓の位置、ドアまでの距離、机の配置から最適な移動ルート、潜在的な脅威となりそうな人物の特定――


「おはよう、斎藤」


 隣の席の佐藤が声をかけてくる。


「ああ、おはよう」


 短く返事をする。三年前の俺なら、もっと軽い調子で雑談でもしていたのだろうか。だが今の俺には、そんな余裕はない。


 授業が始まると、さらに苦痛だった。


「では、斎藤君、この問題を解いてみてください」


 数学教師に指名される。黒板に書かれた二次方程式を見て、俺は内心苦笑した。


 こんなものより、魔法陣の複雑な座標計算や、戦術的な距離と時間の計算の方がよほど複雑だ。だが、それを表に出すわけにはいかない。


「はい」


 立ち上がって答える。当然、正解だった。


「素晴らしい。君は数学の才能があるね」


 教師が褒めてくれるが、俺には虚しく響く。これは才能じゃない。生死をかけた計算を三年間やり続けた結果だ。


 昼休み。


 一人で弁当を食べていると、クラスメートたちの会話が聞こえてくる。


「昨日のアニメ見た?」

「ゲームの新作、面白いらしいよ」

「今度の休みに映画見に行かない?」


 平和な話題だった。戦争も、死も、裏切りも、そんなものとは無縁の世界。


 俺はそれを羨ましく思う反面、理解できなかった。こんなにも平和で安全な世界なのに、なぜ皆はもっと真剣に生きないのだろう。明日死ぬかもしれない、という緊張感がまったくない。


 放課後。


 帰宅途中、コンビニに寄った。飲み物を買おうとレジに向かう途中、俺の体が勝手に動いた。


 入り口近くにいた男が、不自然な動きをしたからだ。手をポケットに突っ込み、店内を見回している。挙動不審で、明らかに何かを企んでいる。


 俺は瞬時に判断した。万引きか、最悪の場合強盗かもしれない。


 男がレジに向かおうとした瞬間、俺は自然に彼の進路を塞いだ。


「あ、すみません」


 わざとぶつかるふりをして、男の動きを止める。その隙に、俺は男の表情と手の動きを観察した。


 案の定、ポケットには何かが入っている。汗をかいているし、明らかに緊張している。


「あの」


 俺は店員に向かって言った。


「この人、なんか変ですよ」


 店員が男を見ると、男は慌てて店を出て行った。しばらくして、店員がポケットからお菓子を取り出しているのが見えた。万引きだったらしい。


「ありがとうございました。よく気づきましたね」


 店員に礼を言われたが、俺は複雑な気分だった。


 こんな些細なことでも、俺の体は戦闘態勢に入ってしまう。平和な日常に、俺は適応できていない。


 家に帰ると、母が心配そうに俺を見た。


「今日、学校でなにかあった?なんだか疲れてるみたい」

「いや、なんでもない。ちょっと考え事をしてただけ」

「そう?でも、なんだか雰囲気が変わったみたい。大人になったのかしら」


 母の言葉が胸に刺さる。


 俺は確実に変わってしまった。もう、あの頃の無邪気な高校生には戻れない。この平和な世界で、俺はどう生きていけばいいのだろうか。


 夜になっても眠れずにいた俺は、外の空気を吸おうと散歩に出かけた。


 夜の街は静かで、街灯がぽつぽつと道を照らしている。三年前なら、夜の外出なんて怖くてできなかっただろう。だが今の俺には、この程度の暗闇は何でもない。


 歩いていると、向こうから酔っ払いの声が聞こえてきた。


「おい、そこの坊主!」


 がらの悪そうな男が三人、俺に向かって歩いてくる。全員酒臭く、足取りもふらついている。


 俺は内心ため息をついた。


 平和だと思っていたこの世界にも、やはりこういう輩がいるらしい。


「なんか用か?」


 俺が冷静に返すと、男たちは笑った。


「生意気な口きくじゃねえか。ちょっと面白いことしてやるよ」


 リーダー格の男が俺に近づいてくる。


 俺は動かなかった。この程度の相手なら、本気を出すまでもない。


 だが、男が俺の肩に手をかけた瞬間――俺の中で何かが弾けた。


 三年間蓄積された戦闘本能が、一気に表面に現れる。


 男の手首を掴み、関節を逆に取る。そのまま地面に叩きつけようとして――


「待て」


 俺は自分を制止した。


 ここは異世界じゃない。敵を殺す必要はない。


 だが、男たちは俺の殺気を感じ取ったらしい。顔が青ざめている。


「て、てめえ……何者だ?」

「ただの高校生だ」


 俺が淡々と答えると、男たちは後ずさった。


「嘘だろ……こんな殺気、普通の高校生が出せるわけが……」


 その時だった。


 街の向こうから、バイクの爆音が響いてきた。ヘッドライトが俺たちを照らし、十台近いバイクが止まる。


「おい、そこで何やってる?」


 バイクから降りてきた男たちは、明らかに半グレだった。全身タトゥーだらけで、金属バットや鉄パイプを持っている。


「あ、兄貴!」


 俺に絡んできた酔っ払いの一人が、バイクの男に向かって叫んだ。


「この坊主が俺らに生意気な口きいて……」


 半グレたちが俺を囲む。数は十五人ほど。武器も持っている。


 普通の高校生なら、ここで逃げるか土下座するかだろう。


 だが俺は――なぜか、久しぶりにワクワクしていた。


 ようやく、この退屈な日常に刺激が現れた。

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