第2話

翌週土曜日、待ち合わせ場所の映画館前で、慶佑けいすけあいちゃんを待っていた。約束の時間より少し早く着いてしまい、そわそわしている。


1時間も早く目覚めて、ふと自分の顔が気になり鏡の前で深いクマを隠そうとクリームを塗ってみたが、なんの効き目もないことに落胆した。冴えない自分がほとほと嫌になる。


楽しみだけど、少し怖い。靴の先を見つめていると軽やかな声が聞こえてきた。


「杉山さん〜!」


振り返ると、明るい色の柔らかな素材のシャツに細身のジーンズを合わせた愛ちゃんが手を振りながらやってきた。髪は耳の横からゆるく編み込まれて、仕事中とは全く違う可愛らしい印象だった。細く長い脚のラインが美しく、慶佑は一瞬見とれてしまった。


「すみません、お待たせしました」


「いえ、今来たところです」


愛ちゃんを見つめっぱなしになりそうな視線を無理やり剥がして、二人で映画館へと足を向けた。






「何を見ましょうか?」


慶佑が映画のポスターを見回していると、愛ちゃんが声をかけた。


「私、コメディとかけっこう好きです……杉山さんはどんなのがお好みですか?」


「俺は……何でも大丈夫です」


「じゃあ、これなんかどうでしょう?」


愛ちゃんが指差したのは、話題のラブコメのポスターだった。


『恋するダメ男と完璧女子』というタイトルで、人気若手俳優が演じるダメサラリーマンと、完璧すぎる新人女優演じるキャリアウーマンのコメディ。


「えっと、これ話題になってるやつですね。ダメ男がどんどん成長していく話らしくて」


愛ちゃんがポスターの説明文を読み上げる。


「完璧女子に振り回されながらも、最後は逆転するっていう……なんだかクセが強そうですけど、面白そうじゃないですか?」


慶佑は少し苦笑いした。まるで自分を見ているようで、なんだか照れくさい。




頷いて慶佑がチケットを買おうと財布を取り出したところで顔が青ざめる。現金を下ろすのを忘れていたのだ。


「あ、あの……電子マネーは……」


「申し訳ありません、こちら現金のみの取り扱いとなっております」


映画館のスタッフの言葉に、慶佑は完全にフリーズした。


「あ!大丈夫です、これで」


愛ちゃんがさっと財布を取り出して2人分の支払いを済ませる。


「ありがとうございました」


「行きましょ」


「え、でも……」




愛ちゃんは自然に慶佑の手を引いた。


温かい手に引かれるまま歩いていたが、ふと我に返った。


(……手、繋がれてる)


慌てて周りを見回すと、他のカップルたちも普通に手を繋いで歩いている。


「ふふ…気にしないでください」


(別のところが気になる……)


愛ちゃんの笑顔に、慶佑は何も言えなくなった。手を引かれて流れるように売店まで誘導され、


「杉山さんは何飲みます?」


という愛ちゃんの甘い声に、ついつい流されそうになる。


「あ、俺は……」


メニューに目を落としたところで、ようやく状況を整理できた。




「す、すみません、本当にすみません!お金払ってもらったのに……!!」


真っ赤になって謝り始める。


(こんな年下の子に、世話を焼かせるなんて……!)


慶佑の必死な謝罪に、愛ちゃんはくすくすと笑った。


「もう、そんなに謝らないでください。たまには人におごってもらうのもいいんじゃないですか?」


「それはありえない!あの、俺、ATM探してきます。いや、でも映画始まっちゃうし……どうしよう……」


恥ずかしさと焦りでだんだん言葉遣いも崩れてくる。


テンパりすぎる慶佑を見て、愛ちゃんは吹き出した。


(どうしようって……、なんかかわいい人。)




「いいですよ、映画見終わったらコンビニ行けばいいですし。今は遠慮しないで」


楽しそうに笑う。


「それより、もう決まりました??私はオレンジジュースにしようかな。杉山さんは?」


男として恥ずかしすぎるが、愛ちゃんのスマートさに救われた。


相手に気を使わせない彼女。いつまでも申し訳ない態度でいても愛ちゃんも困るだろうか、と慶佑も切り替え、飲み物を思案する。


「……ジンジャーエール」


「杉山さん、炭酸強いの好きなんですか?」


愛ちゃんが首をかしげると、慶佑は慌てたように答えた。


「……いや、むしろ逆で、強すぎないやつがいい」


その言い訳がおかしくて、愛ちゃんは笑いをこらえきれなかった。


「ぷっ!……ごめんなさい」


「……やっぱり変ですよね」


「いえいえ!かわいいです」


「は……?かわ?」


愛ちゃんの屈託のない笑顔に、慶佑の頬が少し赤くなった。






二人は静かにスクリーンを見つめた。でも慶佑は、隣に座っている愛ちゃんのことが気になって、なかなか映画に集中できなかった。


時々愛ちゃんが笑う声が聞こえてくる。自然な笑い声がなんとも心地よくて、慶佑は思わず愛ちゃんの横顔を盗み見る。


 映画の光に照らされた彼女の表情は優しい。座席におかれた細い指が目に入り、お店で内緒話をしたあの特別な雰囲気を思い出させる。喉をならし、慶佑は誤魔化すようにポップコーンをかみしめた。






「杉山さん、さっきポップコーンほとんど食べてませんでしたよね?」


映画が終わって席を立つと、愛ちゃんが残ったポップコーンを見ながら言った。


「……ああ、なんか音が響きそうだったから、慎重に噛んでいたら思った以上に時間がかかって……」


「あ、それ、わかります」


本当は愛ちゃんの楽しそうな声や表情が気になって、ポップコーンどころではなかったのだが、それは言えなかった。


「もったいないけど……」


慶佑がポップコーンをゴミのコーナーに置こうとすると、愛ちゃんが彼の手を止めた。


「ふふ、もったいないからこれ持っていって、お茶にしましょー?」


そう言って、ポップコーンを持ち直す愛ちゃん。


「え?どこに……?」


そのまま二人は近くの公園に向かった。




陽気な午後、公園には新緑の若葉が輝いている。桜の季節は終わったが、代わりにツツジやハナミズキが色とりどりの花を咲かせていた。芝生では家族連れがピクニックを楽しみ、ベンチではお年寄りが新聞を読んでいる。穏やかな日差しと、そよ風が頬を撫でていく。


「いいお天気ですねー!」


愛ちゃんが空を見上げて嬉しそうに言った。その時、木陰になったベンチを見つけて、ぱっと表情が明るくなる。


「あ、あそこベンチ空いてますよ!ラッキー!しかも木陰で涼しそう〜」


愛ちゃんが小走りでベンチに向かう姿が、まるで子どものようで微笑ましい。ポップコーンと、さっきコンビニで買った缶コーヒーを手に、いそいそとベンチに腰掛ける。


「ここ、気持ちいいですね」


木漏れ日がベンチに優しい影を作り、二人だけの小さな空間ができあがった。




ゴミにしてしまうことに違和感を感じなくなってる自分と比べて、それを拾い上げて素敵な時間に変えてしまうのことはきっと誰にでも出来ることではない、彼女の才能だろう。


(普通なら誰も気に留めないことに、この子は価値を見出すんだな)


そう思った瞬間、胸の奥に久しく味わっていない甘さが広がった。長いこと、自分の生活は色褪せていた。仕事と家を往復するだけの日々。


それなのに彼女といると、当たり前の景色がほんの少し色を帯びて見える。




公園のベンチに腰をおろした後も、ぎこちない慶佑の話を愛ちゃんはよく聞き、素直な反応で会話を広げる。


「女性の好むものはよく知らないんだ……」


慶佑がぽつりと言った。


「実家に帰るとたまに母に『お友達に持っていくおもたせ何がいい?』とか聞かれるんだけど……正直、俺にわかるわけないから困る」


話をききながら愛ちゃんが缶コーヒーのタブをグネグネと折り曲げる。考えるときのクセだろうかと慶佑は愛ちゃんの指先に見入る。彼女は爪の先まで綺麗だ。


「お母さんと仲いいんですね〜。なるほど。たしかに男性には難しいかもですね?……でも、実は特に詳しくなくてもいいんですよ」


愛ちゃんは微笑んだ。


「そうやって会話に参加してくれるだけで嬉しいんです」


「……そういうものですか?」


慶佑の素直な反応に、愛ちゃんはくすっと笑った。


「うーん……まぁ、甘いのは嫌いじゃないんだけどな。……あーあの、会社で誰かがお土産によく買ってくるやつ。わかる?」


「?」


「博多の……ほら、白くて柔らかい……」


「通りもん!」


愛ちゃんの顔がぱっと明るくなった。


「そう、それ。あれは、うまいよな」


「ふふ」


愛ちゃんが嬉しそうに笑った。


「私も九州出身なんですよ。ちなみに佐賀県です」


「へぇ……!そうなのか。だからたまに方言…?」


「えへへ……はい。この間なんか電話で…」








他愛もない話に花を咲かせているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。


愛ちゃんが空になったポップコーンの袋を丸めている時、ふと西日が長く伸びているのに気がついた。


「あれ、もうこんな時間?」


慶佑も腕時計を見て驚く。気がつけば夕方近くになっていた。


「時間経つの早いですね」


「本当だ……」


二人で顔を見合わせて、また笑い合った。こんなに時間を忘れて誰かと過ごしたのは、いつぶりだろう。


「すみません、どうでもいい話ばかり……、でも愛ちゃんがきいてくれるおかげであんまり緊張しなかったと言うか……」


隣でニコニコ笑う愛ちゃんの顔を正面から見てみる。


「こちらこそ。楽しかったです」


頭を下げた慶佑に愛ちゃんも楽しそうに答えた。


「じゃあ今日はここまでですね」


「ああ……」


駅に向けて歩き出す。慶佑が数歩歩いた後、ふと立ち止まった。


「……あの、次はいつ……」


自分で言ってしまってからしまったと思い、視線をそらす。


愛ちゃんはふっと笑った。


「また次の土曜日に!」


慶佑の心臓が跳ねる。その笑顔を見ていると、胸の奥が温かくなった。


婚活の練習のはずだったが、なぜだか本当のデートをしているような気分だった。


「……はい。」




駅のホームで電車を待ちながら、慶佑はふと今日一日を振り返っていた。


映画の後、公園でのんびり過ごした時間。


愛ちゃんが通りもんの話をした時の、心からの笑顔が特に印象に残っている。


(楽しかったな……)


電車の到着アナウンスが響く中、慶佑は小さく微笑んだ。




ーーーー




営業部のフロア入口で、背の高い男が手を上げて慶佑を呼んだ。


「慶佑〜、ランチでもどうだ?」


経理部長の井藤一馬いとうかずまだった。銀フレームの眼鏡のまわりに黒髪のゆるくウエーブした毛先を品よく遊ばせ、理知的な中に遊びなれた印象が女子社員の目を引く。


「経理部長よ!相変わらずいい男……」


「不思議よね、杉山課長と仲がいいなんて」


「知らないの?大学の同期らしいよ?」


慶佑は疲れた表情のまま立ち上がった。深いクマが刻まれたどんよりした自分と井藤のキラッと光る洗練された雰囲気の対比は歴然としていた。


「たまには鰻でもどうだ?」


上機嫌に提案する声に慶佑は首を振った。


「いや、定食にしよう。千円以下の」


「またあの店かよー」


井藤は苦笑いした。


「まあ、美味いからいいけど」






いつものように年季の入った暖簾をくぐって店内に入る。いりこだしの深くて優しい香りが漂い、思わず食欲をそそられる。カウンターから見える大きな寸胴鍋からは湯気が立ち上っている。壁に手書きで書かれたメニューは3種類しかないが、どれも常連客に愛され続けてきた店主の自信作だ。


「俺はサバ味噌定食。」


井藤がメニューを元の位置に戻しながら、店主の方を向いて声をかけた。奥の厨房からは包丁でまな板を叩く小気味よい音と、魚を焼く香ばしい匂いが漂ってくる。


「鯵の開き定食お願いします。」


杉山も続く。選ぶメニューもいつも通り。


店主が「はいよ」と威勢よく返事をして、手慣れた様子で調理を始める音が聞こえてきた。




「で、例の婚活はどうなった?まだアプリで頑張ってるのか?」


その話題に嬉々として触れてくるあたり、井藤も性格に難ありだ。少し面倒に思い、用もないのにスマホをいじりながら少し言いにくそうに切り出す。


「……実は」


慶佑は先週の土曜日のことを話した。キャバ嬢に恋愛指南をしてもらうことになったという話に、井藤の表情が変わる。


「はあ?お前、それ絶対騙されてるぞ」


「……なんか彼女は違う気がする」


慶佑の言葉に、井藤は呆れたように首を振った。


「まじかよ……婚活で少しは女を見る目が養われてるかと思いきや……相変わらず、夢見てるなぁ」


「な…!お前に言われたくないぞ」


慶佑はスマホを置いて反論した。


「若いときからずっと遊んでばかり。理想が高すぎるだろ」


「何だよお前にしては言うな?お前と違って俺はちゃんと現実を見てるから心配には及ばない」




大学同期らしい軽口のたたき合いが続く。でも井藤の最後の言葉は重かった。


「本気で惚れると後がしんどいぞ。特にキャバ嬢相手なら、なおさらだ」


その言葉に慶佑が苦笑いする。妙に重く胸にのしかかった。


(……たしかに、俺なんかが本気になったら、後で傷つくのは目に見えてる)


けれど同時に、あの笑顔を思い出すと、そんなことどうでもよくなってまた会いに行きたい自分がいる。恋愛、にはまだ程遠い甘酸っぱい思いにどうしていいかわからず、慶佑はただ黙って箸を握りしめた。

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