不器用課長とキャバ嬢愛ちゃん
あわい(間)
第1話
上品なBGMの流れるカフェの店内、
「あの、すみません。ちょっと急用ができてしまって……」
カフェのテーブル越しに、女性の声が響く。婚活アプリで知り合った相手——29歳のアパレル関係の女性は、申し訳なさそうにスマホを見つめていた。
「え、でも、まだ……」
慶佑が時計を見ると、待ち合わせからまだ30分しか経っていない。コーヒーカップにはまだ半分以上残っている。
「本当にごめんなさい。今度またお時間作らせていただいて……」
彼女の表情に、明らかに「また今度」が社交辞令であることが滲み出ていた。
深いクマで縁取られた重たげな目に落胆の色が浮かぶ。
慶佑の話——勤務先の辻井商事の営業の仕事内容や、最近読んだ本の話、休日の過ごし方——どれも彼女の反応は薄く、相槌も上の空だった。
「あ、はい……お疲れさまでした」
慶佑は猫背気味に立ち上がって彼女を見送りながら、胸の奥に重たいものが沈んでいくのを感じた。
(……またか。これで何回目だろう。)
一人残されたテーブルで、慶佑は深いため息をついた。コーヒーの苦味が口の中に広がる。窓の外を行き交う人たちは皆、幸せそうに見えた。
ーーーー
翌日月曜日の昼休み。社内食堂は相変わらずの賑わいを見せていた。慶佑が一人でカツ定食をつつく。深いクマを刻んだ目で黙々と食べている姿は、近づきがたいオーラを醸し出していた。そこへ同じ営業課の部下たちがやってきた。
「課長〜、昨日のデートはどうでした〜?」
若手の田中が、意地悪そうな笑みを浮かべながら隣に座る。
「また撃沈っすか?」
「おいおい、田中。そんな言い方はないだろ」
先輩格の山田が止めに入るが、その口調も明らかに面白がっている。ノリの良さは営業課の風通しの良い特徴でもあるが、このネタに限っては少々辛い。
「課長、もう何回目ですか?アプリでのお見合い」
「……12回」
慶佑が小さくつぶやくと、食堂にいた他の同僚たちも振り返った。
「12回!?」
「うわあ、それはもう……」
「もうアプリより寺に行った方が早いんじゃないですか?」
田中の声が一段と大きくなり、周囲のテーブルからクスクスと笑い声が聞こえてくる。
「逆にギネス記録狙えますよ!『婚活アプリ連続撃沈記録』で!」
「おい、やめろ」
慶佑の制止も虚しく、若手たちの悪ノリは続く。
「課長の何がダメなんですかね〜?身長は高いし、一応課長だし……」
「話がつまらないんじゃないですか?」
「えー、でも課長の趣味って何でしたっけ?読書とか?」
「あ、あれだ!課長の趣味はチャート分析でしょ?他に何があるんですか?」
「それだよ!それ!チャート分析なんて女子ウケ最悪でしょ!」
食堂中の視線が慶佑に集まる。彼は箸を置いて、深くため息をついた。昨日のカフェでの光景が蘇る。女性の困ったような表情、時計をちらちら見る仕草、明らかに早く帰りたがっている空気……
「……まあ、そういうこともある」
慶佑の小さな呟きに、部下たちはさらに盛り上がった。
「課長、今度は作戦変更した方がいいですよ!」
「そうそう、もっと女性が興味を持ちそうな話題を……」
もはや慶佑の意思とは関係なく、部下たちの婚活指南会議が始まってしまった。周囲のテーブルからも「頑張れ〜」という声援(?)が飛んでくる始末だ。
慶佑は顔を赤くしながら、急いで定食をかき込んだ。こんな状況から一刻も早く逃れたかった。
ーーーー
午後、慶佑は田中を伴って得意先への営業回りに出かけた。丸の内にそびえ立つ大手メーカーの本社ビル。エントランスを抜けると、受付カウンターが見えてくる。
「いらっしゃいませ」
そこに立っていたのは20代半ばほどの女性だった。髪をきちんとまとめ、紺のブレザーに身を包んだ姿は、まさに「理想的な受付嬢」という言葉がぴったりだった。
「本日はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございます。辻井商事様でいらっしゃいますね」
彼女の声は、慶佑の耳に心地よく響いた。落ち着いていて、でも温かみがある。まるで家族を迎えるときのような、人を安心させる声だった。
「お約束のお時間は14時からでございますが、少しお早いご到着ですね。担当には伝えますので、こちらでお待ちください」
そう言いながら、彼女は慶佑たちをソファのある待合スペースへと案内した。その歩き方一つとっても美しい。背筋をすっと伸ばし、でも堅すぎない。足音も静かで、まるで音を立てることを申し訳なく思っているかのようだった。
「お飲み物はいかがいたしましょうか。コーヒー、紅茶、お水などご用意できますが……」
メニューを説明する時の手の動きも優雅だった。無駄がなく、でも丁寧で、見ているだけでほっとするような所作。
「あ、コーヒーを……」
慶佑がそう答えると、彼女は微笑んだ。その笑顔は作り物ではなく、心から相手を思いやる気持ちが込められているように見えた。
「かしこまりました。少々お待ちください」
彼女が立ち去った後、慶佑はつい視線でその後ろ姿を追ってしまった。ネームプレートには「
コーヒーを運んできてくれた中尾さんは小さなお盆にコーヒーカップだけでなく、ミニサイズのクッキーまで添えてくれていた。
「お砂糖とミルクもお持ちしました。ごゆっくりどうぞ」
そう言って一礼する姿に、慶佑は思わず視線が釘付けになる。
「課長!見惚れすぎですよ!」
田中に肘で小突かれ、慌てた慶佑はコーヒーカップに手を伸ばそうとして、うっかりスプーンを落としてしまった。
「あ、すみません……」
慌てて拾おうとする慶佑を見て、田中が苦笑いした。
「もう、この人、婚活連敗中で女性に慣れてないんです!」
田中の大きな声が待合スペースに響く。慶佑は顔を真っ赤にした。
「おい!言わなくていいことを!」
歩き出していた中尾さんがちらりと振り返る。ふっと口元を抑えて笑った。その表情は優しい。
「頑張ってください」
小さな声で応援してくれた中尾さんの言葉に、慶佑の心臓はドキンと跳ねた。
ーーーー
その夜、慶佑は田村営業部長に付き合って新橋で軽く飲んでいた。普段なら断るところだが、昼間の部下たちのいじりで気分が落ち込んでいたこともあり、つい頷いてしまったのだ。
そしてそのいじってきた若手の田中と、もう一人ノリの良い後輩の佐藤も一緒に軽いノリではしゃいでいる。
空腹もそこそこ満たされたあたりで部長のいつもの悪い癖が出てきた。
「さあ、夜はまだこれからだぞ!」
部長の号令で、一行は居酒屋を出て夜の街へ。煌びやかなネオンサインが立ち並ぶ通りを歩いていると、部長が立ち止まった場所は——
「
「ここなら安心だ。品のいい店だから」
部長の言葉に、慶佑は戸惑いながらも足を向けることになった。
店内は程よく照明が落とされ、大人の雰囲気が漂っている。
「今夜は。田村部長さん、杉山課長さん、そして田中さんに佐藤さんですね。ありがとうございます」
このクラブのママがやってきて、それぞれ挨拶された後、数人の女性が席に座った。慶佑はボックス席の端っこで部下たちに聞こえないよう薄めの水割りをお願いした。
「おつかれさまでした〜!田村部長、俺達までありがとうございます!!」
「お前たち最近、成績いいからね。この調子で頼むよ〜」
上機嫌の田村部長は部下たちへの激励はそこそこに、早速お気に入りらしいキャバ嬢に話しかける。
「ミカちゃーん!今日もかわいいね〜」
「部長〜♪」
田村部長は完全にデレデレモードに入った。華奢な肩を抱いて今にもキスしそうな距離だ。
「もう!部長〜、まだ乾杯もしてないですよ〜?」
「そうだな、じゃ、みんな乾杯!」
「あ、そういえば杉山、昨日も婚活で大変だったんだよな〜!お前もせっかく連れてきてやったんだから、そんなに暗い顔するなよ。飲め飲め!」
「はい、ありがとうございます」
「ね〜ミカちゃーん♡」
一言だけ慶佑の話に触れたが、すぐに隣に座ったキャバ嬢に夢中になってしまう。
慶佑の隣にも、一人のキャバ嬢が座っている。先程薄めの水割りを頼んだ時に心得たとばかりに微笑んだ優しそうな人だ。
「自分はいいので後輩の方へ……」
言いかけた慶佑の言葉が聞こえなかったような自然な笑顔で話しかけてくる。
「
華やかなドレスに身を包んだ細身の彼女は目を細めた柔らかな表情。髪は軽く巻かれ、メイクも完璧。視線を泳がせるうちに胸元に目が留まる。キャバ嬢のドレスはなんでこうも胸元が開いているんだといらぬ雑念が膨らみそうで目をそらす。
でもふとこの柔らかな空気感に……妙な既視感を覚えた。
「初めまして……杉山です」
慶佑がぎこちなく挨拶すると、彼女、「愛ちゃん」は屈託のない笑顔を見せた。
「杉山さん〜、お仕事お疲れさまです。辻井商事さんでいらっしゃるんですよね?」
女性との会話が苦手な慶佑。だが愛ちゃんの明るい声と雰囲気に気がほぐれてだんだん話しやすくなってくる。さすがプロだなと感心しつつ、グラスにお酒を注いでくれる手つきも、なぜか見慣れたものに感じられた。
「辻井商事って、いろんな分野を扱ってらっしゃるんですよね?杉山さんはどんなお仕事を?」
「あ、営業で……食品関係とか、日用品とか……いろんな会社を回って商品を紹介したり……」
「へ〜!面白そう!お客さんもいろんな方がいらっしゃるでしょうね」
愛ちゃんは本当に興味深そうに聞いている。相槌も自然で、質問も的確だった。会話を上手に引き出してくれる。慶佑は初めて女性との会話がこんなに自然に続くことに少し驚いていた。
「へぇ、そんなこともあるんですね」
愛ちゃんは興味深そうに相づちを打った。会話が途切れそうになった時、彼女はふと思い出したように微笑んだ。
「そういえば、普段はどんなお話をされるんですか?お仕事の話ばかりだと疲れませんか?」
「まあ、仕事以外だと……」
慶佑が言葉を濁すと、愛ちゃんがいたずらっぽい表情を浮かべた。
「……例えばデートとか?」
その表情にドキリとして、慶佑は先ほど部長に婚活の話題を出されたことを思い出した。赤くなる顔が彼女に見えないよう下を向く。
「え、あ……正直、あまり上手くいってなくて……」
少し恥ずかしそうに俯く慶佑の様子を見て、愛ちゃんは優しく笑った。
(この人なら、話しても変ないじりはしなさそうだな……)
「仕事の話とか……あとは趣味の話とか……でも、なんというか、いつも30分くらいで切り上げられちゃって」
「30分!?」
愛ちゃんが驚いた表情を見せる。
「ふ、やっぱりびっくりしますよね。……多分つまらないんでしょうね、俺の話……」
「そんなことないですよ!」
愛ちゃんが即座に否定する。
「話もわかりやすいし、おもしろいですよ杉山さんは!さっきから聞いてても、ちゃんと相手のことを考えて話してらっしゃるのがわかります」
慶佑は驚いた。こんなふうに言ってもらったのは初めてだった。
「本当ですか?」
「はい。きっと緊張されてるだけじゃないですか?」
愛ちゃんの言葉に、慶佑の胸に小さな希望の光が灯った。
そんな話をしながら、愛ちゃんがふと笑った時、
慶佑の頭の中で昼間の光景がフラッシュバックした。
あの受付嬢の笑顔——
「……中、尾さん?」
思わず口から出た名前に、愛ちゃんは一瞬固まった。それから、にっこりと笑って自分の唇に人差し指を立てる。
「はい、本名言わな〜い♪」
ぺろっと舌を出してみせるその無邪気な仕草と、どこか茶目っ気のある表情に、慶佑は驚く。
「ばれたっちゃね」
小さくつぶやかれた言葉は、標準語ではない柔らかなイントネーションだった。
愛ちゃんがニコニコしながら小さく手招きする。
「え?」
その目が好奇心の色をたたえているのは気のせいだろうか?引き寄せられるように彼女の方へ身を寄せると、ふわりと甘い香水の香りが鼻をくすぐる。
愛ちゃんの細い指がそっと慶佑の肩に触れ、彼女の気配が耳元に近づいてくる。吐息が頬にかかって、慶佑の心臓がドキドキと音を立てる。
「……昼間は会社の受付、夜はこちらでお仕事させていただいてて……。知らないふりしてごめんなさい。内緒にしていただけると嬉しいです」
女性の囁き声を至近距離で聞かされて、慶佑は思わずゾクゾクした。声だけでなく、彼女の温もりや香りに包まれて、頭がふわふわしてくる。
最後の一言は受付嬢の時のような丁寧な雰囲気が混じる。昼間の清楚な中尾さんと、今目の前にいる華やかで人懐っこい愛ちゃんが同一人物だなんて……垣間見てはいけない秘密を教えられたような、特別な気持ちになる。
話を区切るように愛ちゃんはにっこり笑って、慶佑のグラスにミネラルウォーターだけ足してくれた。その仕草も、なんだかドキドキしてしまう。
「昼間の婚活のお話も本当なんですね?田中さんも心配して応援してくれてるみたいでしたけど」
愛ちゃんは昼間の田中の発言だけでなく、その時の雰囲気まで覚えていた。動揺して挙動不審になっていた自分を思い出して気まずい。
「……ああ、まあ」
「大変ですね、婚活って」
愛ちゃんは同情するような表情を浮かべた。その優しさが、慶佑の心をほんわりと温める。
「私も友達からよく相談されるんです。恋愛のこと」
「そうなんですか」
「もしよかったら……私、恋愛指南しましょうか?」
「……は?え?」
何を言われたのかわからず聞き返してしまう。
「けっこう得意なんですよ、そういうの。お友達もみんな上手くいってるんです」
愛ちゃんの言葉には、不思議な説得力があった。昼間の優しい声と同じ、人を安心させる何かがあった。そして、さっきの耳打ちのドキドキが、まだ胸の奥で続いている。
「……お願いします」
気がついたら、慶佑はそう答えていた。
「じゃあ、お休みの日にでも、実際にデートの練習をしてみましょう!来週の土曜日はいかがですか?」
「土曜日……」
「映画でも見に行きましょう!楽しいですよ〜」
その時、隣の席から声がかかった。
「なになに?課長〜?何か面白い話してます?」
田中が身を乗り出してくる。佐藤も興味深そうにこちらを見ていた。
「あ、いや……」
慶佑が慌てると、愛ちゃんがにっこりと笑った。
「恋愛指南のお話をしてたんです♪」
「恋愛指南!?」
田中と佐藤が同時に声を上げた。
「課長、マジですか!?」
「いいじゃないですか課長!」
佐藤が手を叩いて喜ぶ。
「愛ちゃん、頼みます!課長をよろしくお願いします!」
「この人、本当に不器用で……でも根はいい人なんです」
田中も真剣な顔で頭を下げる。
「任せてください♪」
愛ちゃんが楽しそうに笑った。
「杉山さん、絶対に素敵な人と出会えるようにしますから」
「課長、やったじゃないですか!」
「これで婚活も成功間違いなしですよ!」
部下たちの和やかな応援に、慶佑は恥ずかしかったが、なぜか前向きな気持ちになっていた。
婚活で散々な目に遭っていた彼にとって、この明るくて前向きな女性と過ごす時間は、きっと何かを変えてくれるような気がした。
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