12.シェイナの時の流れ

 こんなことは初めてだ、とネイロスも驚いていた。昔にそんなことがあれば、彼も知っているはずだ。獣ならともかく、魔物が現れれば被害も相当だろうから。

「んー、ちょっとありえそうに思ったんだけどなぁ」

「オレがここへ入った限りでは、おかしな気配を醸し出している魔法書はなさそうだ。その可能性はまずないな」

 不安材料は少しでも早く取り除ければ、と思ったのだが、アートレイドの推理は外れたようだ。

 他に思いつくこともなく、本来の目的である変化へんげの魔法が書かれた魔法書を探し始める。

「……そっち、どう?」

 探し始めて、どれくらいの時間が経過した頃だろう。

 アートレイドが、手元の魔法書を見ながら尋ねた。

「残念ながら、ないな。変化の術は、悪用されるとひどく厄介だ。いつだったか、ある年から一般の魔法書には載せなくなった、と聞いた。いわゆる禁忌の魔法に分類されて、その手の魔法書のみに書かれているらしい。お前がこれまで会ってきた魔法使いは実力者が多かったようだから、術については知っているんだろう。でも、対処できないのは、そういう魔法書をじっくり読む機会がなくて詳しくわからないってことなんじゃないか?」

 確かに、ネイロスも術そのものは知っていたようだ。しかし、解呪は知らなかった。ディラルトの話を聞けば、そういう事情なのか、と納得できる。

「じゃあ、こうして探してもムダってことか……」

「そうでもないさ。ある年と言っても、ごく最近の話だったはずだ。パルトのように、まだ田舎の村までしっかりと話が行き渡らないくらいにな。ここにある魔法書はそれ以前の物がほとんどのようだし、一般書であっても書かれている可能性は十分にある」

「だといいけど……」

 妙な音がしてディラルトが振り返ると、アートレイドが棚にもたれた状態でずるずると崩れていた。

「アートレイド! どうした」

 ディラルトが駆け寄ってアートレイドの顔を覗き込むと、少年は青白い顔でうつろな目をしていた。

 貧血でめまいを起こしたのか。何にしろ、かなり疲労がたまっていそうだ。

「……だい……じょ」

「その状態で、何が大丈夫だ。しばらく休め。朝から顔色が悪いと思っていたんだ。本当に動けなくなるぞ」

 書庫へ来る前、ディラルトはフローゼからもこっそり言われていたのだ。

 アートレイドはかなり根を詰めてるようなので、たまには休憩を入れるように勧めてくれ、と。

 言うのが少し遅かった、とディラルトは後悔する。ここまで疲れているとは思わなかったのだ。

「最近、シェイナがさ……」

「ん?」

 宙を見詰めながら、アートレイドがぼそりと言う。声にまるで力が入ってない。

「話す言葉が、以前よりかなり減ってきたように思えるんだ」

「そうなのか? ユーリオンやフローゼとはよく話しているようだったぞ」

「うん。今はたぶん、俺以外の人とゆっくり話す時間ができたからじゃないかな。だけど……前と比べると、仕種がねこっぽくなってきてるんだ」

 黒ねこにされて、およそ一年半。

 アムルの村を出た頃は、屋根を駆け上るなんてできなかった。気が付くと、今は平気でやっている。

 ねこは前脚で顔を洗う仕種をするが、最初の頃はどこかぎこちなかった。今は、知らなければ普通のねこと同じ。

 今の身体に順応している、と言えば聞こえはいい。だが、シェイナは人間だ。順応している場合ではない。

 このままねこでいる時間が長くなればなる程、人間に戻った時にちゃんと人間らしくいられるのだろうか。

 呪いを解くことができないままだと、いつか本当のねこになってしまうのでは。言葉を失ってしまうのでは。

 そんなことを考えると、ぞっとする。

 魔法使いではない人間の前で怪しまれないように「にゃあ」と鳴くのを聞いて、これはごまかして「ねこのふり」をしているのか……本当にねこになりかかっているのか。

 そんな恐ろしい想像が頭をよぎることは、今まで何度もあった。

 ラゴーニュの山へ入って「魔女の呪いを受けた」という人に会ったことがないので、その人達がその後どうなっているのかを聞くことができない。

 だから、不安が際限なく広がってしまう。焦ってしまうのだ。

 早くシェイナを人間に戻さないと、大変なことになってしまうのでは、と。

 アートレイドが焦ってしまう理由は、他にもある。

 寿命だ。

 ねこの平均寿命は、人間に比べれば圧倒的に短い。人間であれば、今は十五歳のシェイナ。ねこの姿であり続ければ、身体はねこと同じような年の取り方をするのだろうか。

 もしそうなら、シェイナの寿命はあと数年にも満たなくなってしまう。

 今の彼女は人間とねこ、どちらの加齢の仕方で時を過ごしているのだろう。

 もし、老猫となった時に解呪方法が見付かったとして、戻したら老女になってしまわないか。

 解呪の魔法が見付かっても、シェイナが「元の姿」に戻ってくれなければ意味がない。妹が自分の祖母のような姿になるなんて、見たくなかった。

 もしくは逆に。

 シェイナはまるで年を取らず、戻す方法を見付けられないままアートレイドが先に寿命を迎えたら。

 シェイナはどうなってしまうのだろう。

 誰かに呪いを解いてもらうまで、永遠にあの姿のまま、なんてことがあるのだろうか。

 たった一人の肉親である自分がいなくなっても、彼女だけがあの姿で生き続けるなんて、生き地獄もいいところだ。兄にすれば、おちおち死ぬこともできない。

 時間が経てば経つ程、自分達が窮地に追いやられている気がする。

 アートレイドが根を詰めてしまうのも、こういうところに理由があるのだ。

「俺達が解呪の魔法を探し始めて一年半経つけど……これって、短い方かな。物語の中だと、こういうのって百年とか軽く流れたりするけど」

「さぁ、どうだろう。オレは呪いを解こうとがんばっている人間に会ったことがないから、何とも言えないな」

 ネイロスも、呪いをかけられた人間に会ったことはない、と話していた。そんな人間はそうそういるものではないのだろう。

「一度さ、それっぽい魔法を見付けたことがあるんだ。だけど、まるで効果がなかった。あ、もしかしたら……なんて思わせぶりな状態にさえならなくてさ。それから後は、まるで手がかりなし。リュイスは方法があるって言ったけど、本当なのかな。俺、探し出せる自信がなくなってきた」

 難しい、とは言われた。でも、こうまで手がかりが掴めないものだろうか。探す方法が違うのかも知れない。だが、それなら何が正解なのだろう。

 これまで会ったのは「呪いを解いたと言っても、せいぜいレベルの低い魔物のものだ」という魔法使いばかり。

 いくら人間が使える魔法だと言われても、かけたのが魔女となると魔力の差がありすぎる。やはり「呪い」に近いものになるのではないのか。

 今もこうして必死に探しているが、魔女の呪いに引っ掛かってくるものは何もない。心がくじけそうになっているのは、疲れているから……だけだろうか。

「……ごめん。関係ないディラルトに手伝わせておいて、俺がグチってたらダメだよな。今の、なし」

 そう言って笑ってみせる顔にも、全く力がない。

 アートレイドは作業を再開するべく立ち上がろうとしたが、そんな彼の肩をディラルトが軽く押さえた。

「いいから、しばらくはオレにまかせなさいって。ここで見付かる保証はないけれど。このままお前を担いで書庫を出たら、フローゼに叱られそうだ。シェイナも心配するだろうしな。部屋へ戻って休めって言ってもお前は聞きそうにないし、それならそこで座ってろ」

「でも……」

「どうせ再開したって、今の状態ではそう大した数はこなせない。もう少し回復してからにするんだな。しばらく目を閉じるだけでも、かなり休息の効果はあるらしいぞ」

「閉じるだけで?」

「ああ」

 ディラルトの手が、アートレイドのまぶたを閉じさせる。途端にアートレイドの全身から力が抜け、寝息がその口から漏れ始めた。

「お前の場合、目を閉じるだけでは足りないようだからな。今日はそうしていろ」

 幼子を見るような目をしたディラルトは、ぽふっとアートレイドの頭に手を置いて、静かにそう言った。

☆☆☆

 どこかで、ぱらぱらと紙をめくる音がする。紙……本のページだろうか。

 誰かが近くで、本を読んでいるのかも知れない。近く……ここはどこだったろう。

 ぼんやりと考えながら、アートレイドはゆっくり目を開ける。少し向こうに、誰かが立っているのが見えた。

 長身の男性と、小柄な女の子だ。流れる銀色の髪は、どこかで見た気がする。ゆるめに編まれた栗色の三つ編みも。

 どちらも、心がほっとする色だ。いや、髪の色ではなく、彼ら自身がそういった雰囲気を感じさせているのだろう。

 ところで、この二人は誰だったろう。顔がぼやけてはっきりしない。

 何度かゆっくりまばたきしていると、次第に二人の顔がはっきりしてくる。

「えっ」

 アートレイドは二人の顔を認識した途端、身体を起こした。

 棚にもたれ、座った状態で眠っていたらしい。それも、かなりぐっすりと。

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