ハイスクール・アングラー! ~ヒトコウ釣り部奮闘記~

宮郷ザッキ

第1章 彼はアングラー

 水面が、爆ぜる。

 紫紺の空と、橙の朝日を映しとった水面が爆発した。ボンッ!という低い音と飛沫が周りに響きながら、水面が張り裂けた。

 早朝の6時に起きた爆発は、宮崎県の中央部を流れる一ツ瀬川の下流で起きる。河川敷には1人の少年がいた。 

 爆発に驚いたのか、きっとそうだろう。立ち尽くしていた場所から急激な動きをもって移動する。

 彼の背丈は160センチ中盤、短く切り揃えられた髪は黒髪で鋭い目つきで水面を睨んでいる。 

 背はあまり高くない、しかし張り出した肩幅や硬質な髪はまるで、イノシシを彷彿させた。 

  彼の目線の先には川の流れの真っただ中に生まれた爆発があった。  

 突然、水柱が起きるなんてことは、本来あり得ない。

 明らかな非常事態が起きている。居合わせた彼の判断能力が正常なら一目散に逃げるか、その場に伏せて自分の無事を祈る場面だ。   

 しかし、彼は慄く様子もなく、爆発に正対する姿勢をとった。立ち向かうつもりなのだ。この非常識に。 

 この少年が錯乱した訳ではない。彼にしか分からないことがあるのだ。その優位性が彼の余裕を生み出している。

 常識外れの事実の濁流の中で彼だけが真実を知っていた。 

 そして、大事な事実がもう1つ。その少年は興奮して水際に接近していた。

 異変に対して興奮しながら駆け寄ってくるその様子は、まるで水辺の狩人だ。 

 狩人の手には釣具一式タックルが握られていた。 

 彼は釣り人だったのだ。彼はアングラー(漁師とは違い、釣りだけで魚を捕獲する人のこと)だった


「ィよしっ!!」

 声が出た。大きな声が早朝の一ツ瀬川に響いた。近所の住人にはいい迷惑だろうが、そんなこと、俺の知ったこっちゃない。

 今朝、暗いうちに家の玄関を出る前より、ずっと活きのいい声。こういう時の声はやっぱりデカくなってしまう。仕方ないよな。 

 そうしている間にも水面は水しぶきを立て続ける。

 水面爆発!水面爆発!デカい!エグい!

 目の前で起きたこの異常現象は俺の手で、いや——俺の手が握る釣り具が起こした必然だ。タネも仕掛けもある。

 釣り竿を操り、疑似餌ルアー(餌の代わりになる魚を模した形の釣り具)を思いどうりに動かす。様々な要因と噛み合い、そのアクションが実を結ぶと、こうなる。 

 今使っているルアーはトップペンシルとか呼ばれる。水面トップを滑るように動かせる太い鉛筆形ペンシルのものだ。 

 肉食魚は餌を水面まで追い込んで食いつくことが多い。水がないと身動きの取れない魚は、水面まで追い込んだら逃げ場がなくなるからだ。 

 つまり、逃げ場をなくして食われるのを待つだけの魚をルアーを使って再現したワケだ。    

 この爆発は魚が下からルアーを食いあげた時に起きる。魚が空気ごとルアーをを吸い込んだ証拠だ。それもド派手に。

 基本的にデカイ音と衝撃波はデカい魚がかかった証だ。今だってそう!

 釣りの成果と書いて釣果ちょうかと読むが、俺は、この瓜坊三洋うりぼうさんようは、今それに王手を掛けた。

  あとは、ブツを手繰り寄せるだけ!


 三洋は脇を強く締め、握る釣り竿を両腕ごと跳ね上げる。その勢いたるや相当のもので、少年の身体は背中を反らしてその勢いに耐えなくてはいけなかった。

 ルアーにセットされている釣り針を魚に貫通させる動作アワセを実行したのだ。

 タイミングと力加減の求められる難しい動作だ。失敗すれば、魚をみすみす逃してしまう。

 しかし、三洋のアワセは的確だった。いまだ姿の見えない魚の口に針を引っ掛けることに成功していた。


 その瞬間、少年の体は川の中に向かって、急激に引っ張られる。 

 三洋は引かれる勢いに抗って、右手で竿のグリップ部を握り、左手でリールのハンドルを握る。竿に込められたパワーで魚の引きを軽減しようとする動きだ。 

  握る竿にはトリガーと呼ばれる銃の引き金にも似た突起がついている。強力な滑り止めとなるパーツだ。 

 専用の機構を万力のような握力で握る安定力は、魚の引きに耐えられている。三洋の肩幅はハリボテではないようだ。

  釣り糸を介して、魚と綱引きをしているのだ。

 その様子は時に格闘技を彷彿とさせる。釣りの中でも最も体力のいる作業になる。

 三洋にとっては悪い知らせだが、魚はかなりの剛力らしい。急激に速く泳ぎ、糸を引きちぎらんと、陸に尻尾を向け川の深みに向かって泳ぎ出す。

「ああ!?マジか!」

 対する三洋の声には、興奮が4割、驚愕が6割含まれていた。

 早朝のうえ、今日は4月。まだまだ底冷えする時期だ。魚も人間と同じく、あまり活動的にはならない。比較的に体力のある大型の魚であってもそうだ。

 しかし、現実として三洋の釣り竿は大いに曲げられ、釣り具は悲鳴をあげ始めた。彼にとって予想外の出来事だったのだ。

 釣り竿の先端がグイグイと頭を垂れる。根元に至るまでが円を描かんばかりに曲げられ、部品がギシギシと軋みを上げる。まるで悲鳴のようだ。 

 最も大きな悲鳴は糸から聞こえてくる。釣り糸は常に空気や海水によって耐久性を削られている。数多ある釣り具の中で最も劣化の激しい消耗品なのだ。

 道具からの叫びは彼の冷静さを脅かした。対応がまごつくのも、やむなしだろう。

「うおっと……ヤバいか!?ヤバいな!」

 頭も手先も正常さを欠いている始末。このままでは糸を引きちぎられてしまう。そのままルアーごと魚にオサラバされてしまう危機が迫っている。

 タイムリミットが近い。三洋の体力的な限界はそろそろだ。 

「なんとかしねえと……」 

 『逃げられちまう』その言葉が三洋の脳内を支配していた。


 そんな時だった、水辺の全てに届く声が発せられたのは。

「三ちゃん!」

 その声は女性のものだった。ハリのある音域と、聞いたものを揺さぶる力強さを兼ね備えた、鶴の一声だった。

 土手の上から呼びかけた彼女は、鶚響子みさごきょうこ。177センチのすらりとしたプロポーションが目を引く少女だ。 

 女性離れした精悍な顔の輪郭に、丸みを帯びた温和そうな目元がワンポイントの親しみやすさを与えていた。切り揃えたうえで、完璧にセットした薄い灰色の髪のショートヘアが特徴的な瓜坊三洋の幼なじみ。 

 走り出したら、滅多なことでは止まらない三洋の暴走ストッパー役でもある。

 ブレザーとチェック柄のスカートは学校の制服だろうか、彼女の完璧なスタイルも相まって様になっている。 

 厚手のタイツや手袋は、防寒具を一切身に着けていない三洋とは真逆の装いだったが、気温を鑑みるに彼女の方が正装に近いだろう。

「響子か!おはよう!」

 ハッとした様子の三洋は振り向くことはしなかったが、背中越しに挨拶の声を張り上げ、代わりとばかりに手元の釣り具をいじる。 

 リールという、糸を巻き取ったり放出したりする役割の釣り具を操作したのだ。 

 彼は劣勢の戦況を左右する一手を打った。ささやかな動きだが、効果はすぐに表れる。

 途端にリールからジリリ、ジリィッ!と、金属製のジッパーを下ろすような音が連続的に発生する。

 釣り人にとっては大物に針をかけた証拠の歓喜の歌だ。

 リール内部のドラグと呼ばれるパーツが作用し、少しずつ糸を放出しているのだ。魚が引けば引くほど糸は後出しで放出される。

 彼の使うベイトキャスティングリールと呼ばれる形状のリールは、特にドラグの抵抗力と糸を巻き上げるパワーに長ける特徴を持つ。

 もはや魚が引っ張り、糸を引き千切るのは不可能となった。


  途端に、綱引きは三洋の優勢となった。人類の英知によって先ほどよりも、より効率的に釣り糸を巻き上げる。

 リール内の真鍮製の歯車が回るたびに、三洋と魚の距離は少しづつ近付いていく。

 魚の力に負けていた釣り竿も調子を取り戻していた。素材となっているカーボン繊維の反発力と粘り強さが十全に発揮されている。

 今度は逆に魚の頭を反転させ、お返しとばかりに陸に向かって魚を引っ張る。 

 三洋の巧みな竿さばきも竿のパワーをワンランク上に引き上げる。彼は常に変わる魚の位置や水の流れに合わせて竿の角度を微調整していた。

 3分程と短い時間ではあったが、狩人と獲物の激戦が終わろうとしている。

 勝敗は決した。魚は体力を使い切り、力なく岸に寄せられる。

「よし!良し!よぉし!ヨシ!!」

 達成感の満ちた声でグリグリと糸を巻き取る三洋は、川に入り魚を両腕で受け入れる。タックルを右手に持ったまま、前腕と胸板で魚を挟み込む。

 彼もまた制服を着ているが、濡れるのはお構いなしの様子だ。膝から下と肘から上を水に浸して体の前で魚を抱える。

「三ちゃん!?なにしてんの!そこ、川だよ!?」

  いつの間にか、河原まで降りて来ていた響子が慌てた様子で寄ってくる。

「分かってる!それより見ろよ、こいつ!」

 ようやく振り返った水辺の狩人の前面には銀の怪物が抱えられていた。

 その名をスズキ。100センチを超えていよう姿は下流の頂点捕食者にふさわしいサイズだ。

 名前の元となった、すすぎ洗いをしたような曇りのない純銀の鱗。存在感をかき立てるぶ厚い黒ずんだヒレの数々。体の長さと分厚さのコントラストが完璧にとれた美しき大物だった。

「……すご……」

 響子は言葉を失った。自分たちのいる場所は川辺とは言え、コンビニも駅も近い町中だ。その中にいて、こんな巨大魚に出会おうとは。青天の霹靂とはこのことだろうか。

「やったったぜ!流石にこん時期釣るっち思わんかった!見らんね、クソデカサイズやぞ!糸も逝かれるかと思ったわ~響子のおかげだわ!感謝!あいがとがした!」       

 三洋は興奮を隠さずに、早口で捲し立てた。方言の訛りも全開になっている。

  掛け値なしの歓喜に彼の体は、毛の先まで興奮していた。

  本能丸出しのその様子は獲物を仕留めた水辺の狩人だ。手段は釣りだが、大物の前に余計な言葉は要らない。

「あ、ありがとがした……て、違うよ、ダメだよ!」

「んが?なんがや?」

 響子もまた、三洋の勢いに吞まれたが即座に切り返す。そう、彼女は三洋の暴走を予見してストップをかけにきたのだ。 

 彼らはこれからとあるイベントを控えているのだから。

「私たち、これから入学式だよ!?高校の!どーするのその服!?」

 そう、日付は4月1日、ほとんどの学校では新入生が迎えられる日だ。


「あ」

 三洋は魚を抱えつつ、ようやく思い返したらしい。腕で抱えるスズキと響子を交互に見やる。ようやく脳内理解が追いついたらしい。

 彼は元々、ここまで長々と釣りをする予定はなかったのだ。今にして思えばだが。

「あ?あってなに?三ちゃんベトベトのビチョビチョじゃん!」

「あ˝あ˝あ˝ぁ!!!そうじゃん!ヤバいじゃん!え、今何時?!」 

 途端にべたついた汗が三洋の背筋を伝った。先ほどまでは寒いとすら感じでいた体に嫌な熱が籠りだす。彼の顔も真っ赤に染まった。

「今!?パニック来るの遅いよ!?もう7時だよ、あと1時間しかないよ!」

 響子も若干、狂乱に吞まれつつも冷静に受け応えをする。腕時計は七時ジャストを示している。

「なにィッ!!!こうしちゃいれん、ありがとう!スズキ!元気でな。」

 三洋は今以上のパニックを起こすことなく、スズキをリリースする。

 再開の祈りも込めるのは彼の流儀だった。あんな大物は滅多に針にかからない。釣れるものなら、ぜひ釣りたい。その思いを口に出す。

 スズキのエラに水を送り込み、酸欠状態から救出する。魚が尾ビレを振り回し、活力を取り戻したことを確認し、手を離した。

 スズキは彼の顔を水中から覗いて無言の抗議をしたように見えたが、すぐに川の中心の流れに帰っていった。 

 その様子を見届けた三洋はザバザバと水音を立てつつ、川から上がってきた。

 彼はそのまま襟も正さずに走り出した。身体にまとわりつく水やスズキの鱗をまき散らしつつ、自宅に向かってダッシュする。

「すまん!響子。先行っててくれ!遅刻はしない!多分……いやゼッタイ!」 

 さっきと同じ、背中越しでの語り掛け。聞いた響子は肩をすくめる。

 こうなると三洋は物理的にも、精神的にも止められない。なにを言っても無駄だ。そのことは幼なじみである響子が1番よく知っている。 

 名は体を表すというが、今の彼はまさしく瓜坊だ。イノシシの子供だ。猪突猛進の勢いでダッシュする。

 伝える相手が焦っているのだから、言いたいことはなるべく端的に。

「10分前には来てね!待ってるから!」

 そう声を張った響子は高校に向かって、歩き始める。  

 返事こそなかったが、あの野生児にはきっと聞こえていることだろう。

 自分が遅れるなどあってはならない。待っているといった手前、先に到着しておかねば。

 三洋は持ち前の機動力で5秒も経たずに土手を登り切り、街路に入っていた。

 響子は自分の視界から消えた三洋の慌てる姿を思い出すと、入学式の最中であっても笑ってしまいそうだった。 

 長い付き合いだが、彼といる時の自分には笑顔が多い。響子は改めて自覚した。

「ほんと、仕方ないんだから。イノシシ人間」

 そう言葉に出した響子の表情は、心穏やかな春にふさわしい笑顔だった。

 

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