第13話 雨上がりの港。静かなざわめき。


 朝に降った走り雨が港町の石畳を濡らし、独特の匂いを街角に漂わせている。


 市場はまだ朝の喧騒を引きずりつつも、昨日の議会で決まった暫定措置のおかげか、どことなく落ち着きを取り戻しつつあった。

 小さな露店では商人たちが書類を整え、物資の購入制限規律に従い、手慣れた様子で働いている。


 リナは今日もルカの手を引き、町を歩いていた。

 ルカは木剣ながらも双剣を腰に履き、少し胸を張っている。

 二人にとってはいつもの散歩のつもりなのだが、どこか緊張の色が混ざる午後だった。


「これで、少しは落ち着くかな」


 リナは低くつぶやく。家族会議での結論を胸に、彼女なりの「出来ること」として、自主的な広報の真似事を選んでいる。

 ルカは小さく頷き、木剣の柄を撫でた。

 通りには、久しぶりに子供の手を引く親の姿も見え始めている。


 角を曲がると、小さな子供たちが路地で遊んでいた。

 木の棒を振り回し、笑い声を上げている。

 先日までは、こんな光景は見られなかった。


「ほら、ルカ様。子供たちが遊んでる」

「……うん。良かった」


 ルカの表情が、わずかに緩む。

 この光景こそが、奥方様が守りたかったものなのだと、リナは思った。


「……昨日より、みんなの顔が険しくないよ」


 市場の粗暴なざわめきは、まだ完全には消えていなかった。先日まで続いた小競り合いの余波が、街角のどこかで細く尾を引いているのだろう。

 それでも、表通りに立つ人々の表情には、わずかに落ち着きが戻りつつあった。空気はまだ油断ならぬが、混乱のただ中は過ぎた——そんな、静かな手応え。


 その頃、屋敷では。


 アウグスタは窓辺に佇み、遠く街の一角を見つめていた。ここからでは細かな様子までは見えない。だが、風に混じって届く気配から、おおよその状況は察せられる。


 背後から足音が近づき、オルトが姿を現す。

 彼は短く息を整えると、巡回隊の編成と今朝の市場の様子、露店商たちの反応を、簡潔かつ正確な言葉で報告した。


 アウグスタは静かに耳を傾け、時折うなずく。その横顔には安堵の色が浮かぶ一方、瞳の奥にはまだ警戒が灯ったままである。


 ——小さな火種は、消えたとは言えない。


 彼女はそう判断しつつも、息子の働きによって混乱が抑えられたことを確かに感じ取っていた。わずかに肩の力を抜き、ゆっくりと言葉を返す。

 だが、余計な事を付け加えるのが息子であった。


「騒ぎ出しそうなチンピラなんかは、睨んでやったら大人しくしてるぜ。……アイツら、政策とかには興味ねーだけかもしんねーけど」

「程々になさいね。怪我をさせてはいけませんよ」


 騒ぎがあるから暴れる。そんな層もある。だからこそ、いざとなれば力でも圧をかけられるオルトの気質は適任だった。


「朝一の動きでは、帳簿上に問題なし。損失も計算内に収まっています。初日は概ね順調ですね」


 フィオナも帳簿を見つめながら報告する。この娘には一番大変な役割を任せてしまっている。


「なるべく、小商人の負担を減らすようになさい」


 アウグスタは穏やかな声音で言いながらも、その目は揺らがない。依然として、静かに街の様子を見据えていた。



 表通りが静まりつつある一方──裏手では富裕商や投資家たちがひそひそと集まり、憤りを漏らしていた。


「市場を縛るな、と言ったはずだ」

「行政の勝手のせいで大損だ。お上は市民の生活を考えていない」


 声は低くとも熱を帯び、小さな怒りの波が静かに広がる。その中へ、密やかに扇動者が忍び寄った。

 通行人に紙片を渡し、ひそひそと耳打ちする。「横暴により、自由市場が奪われた」と。


 小さな紙片と控えめなささやきは、街角のざわめきにじわりと染み込み、裏手の怒りの空気に静かに溶け込んでいった。


「あの女は我々が選んだ議員でもなく、いつの間にか権力を握って好き勝手にしている。あれでは、まるで僭主ではないか」


 事実、彼女は選挙によって議席を得たわけではない。王の黙認と特例によって与えられた権限で、政策を実行している。

 それがどれほど合理的であろうと、理解しようとしない者にとっては、選ばれていない支配者——いや、暴君にしか見えない。


 裏通りで、一人の男が紙片を配る。そこに記されたのは赤い紋章。

 受け取った商人が顔をしかめた。その意味を知らぬ商人なぞ、いない。


「……これは?」

「お読みください。真実が書いてあります」


 男は静かに立ち去る。

 商人は紙片を開き、目を通した。


『代行は王に選ばれた貴人ではない。我々の自由を奪う僭主である』


 商人は眉をひそめ、紙片を握りしめた。

 その肩には、赤い刺繍が見えた。


 人は群れ、力を蓄える。


 ——その群れの中には、肩に赤い刺繍を纏った者の姿も混じっていた。目立たぬよう巧みに紛れ、静かに人々の視線を集める。


 屋敷の窓辺に立つアウグスタは、遠く街の一角を見つめている。ここからでは、細かなざわめきまでは届かない。

 それでも、かつて小さな子供たちが無邪気に走り回り、笑い声をあげていた光景が脳裏に蘇る。


 秩序を取り戻し、あの光景が再び当たり前になるように——

 それこそが、彼女が領主代行として願い、選び続けてきた未来だった。


 日が経つと、市場や港の巡回も日常の旋律に溶け込みつつある。

 フィオナは帳簿や巡回報告書を手に、オルトと共に露店や倉庫を確認してゆく。

 各所で購入制限の規律が守られている様子に、彼女も順調さへの手応えを感じていた。


 そしてやって来たのはフィオナの実家、ミリオッツイ商会とはまた別の有力な貿易商の倉庫である。

 その商会とは少々折り合いが悪く、本日は確認の役目をオルトに譲っている。


 フィオナは道の端からぼんやりと、赤き陽に照らされ高く伸びた倉庫の影を眺めていた。

 そのとき、実に珍しい男性を見掛ける。横顔を一瞥した瞬間、思わず頬が赤くなる。


 圧倒されるほどの美貌——アントニオ・マリオ=ペントラ・エーリチェ男爵だ。


 何故ここにいるのか理解ができず、瞳を瞬かせる。

 次の瞬間、彼は消えていた。


 頬の熱を感じながら、フィオナはゆっくり視線を下ろす。現実に戻った彼女は、思わず手を上げる。


「お疲れ様」


 確認を終えたオルトが倉庫から出て来ていた。


「終わったぜ。お前が嫌がるから、どんな面倒な奴らかと思ったけど、結構協力的だったぜ」


 フィオナは少し驚いた顔をする。


「協力的? アイツらが?」

「ああ。妙に素直だった。……逆に、気味が悪いくらいにな」


 オルトの表情が、わずかに曇る。

 フィオナも眉をひそめた。


「……何か、企んでいるのかもしれないわね」

「だろうな。まあ、今のところは大人しくしてるから、いいけどよ」


 二人は顔を見合わせ、小さく息をついた。


 彼に任せたのは、相手との折り合いの悪さの他にも理由がある。

 この商会の会頭親子は、ペントラ卿とはまったく別の意味での女の敵だった。

 その不快感から顔を見たくもなく、認定弟分に仕事を押し付けたフィオナである。目論見通り、相手方は恐れたのだろうと切り替える。無事、思惑は成功していた。


「好き嫌いで商売相手を選んでいたら、良い商人には成れないぞ?」

「生意気言うわね。バカオルトの癖に」


 背中を叩いてやれば、バカ笑いが響いた。別に褒めてないのに気楽なものだ。

 心配事がないではない。だが、上手く回っている感触を得ている。

 胸の内の不安を仕舞い込み、オルトと共に屋敷へと戻るフィオナであった。


 昼夜変わらぬ光景は日ごとに繰り返され、帳簿の日付には数日分の記録が刻まれていく。

 市場は概ね落ち着き、巡回隊の報告も「初期成功」と呼ぶにふさわしい内容を伝えていた。


 しかし裏手では、富裕層や権力者たちが着々と抗議の準備を進めている。

 使用人や傘下の商会に圧力をかけ、行政に影響を及ぼそうとする動き。

 小競り合いや口論はまだ軽微だが、街角のざわめきにわずかな緊張を添えていた。

 その群れの中には、赤い刺繍を肩に纏った者の姿もあり、目立たぬよう巧みに人々の間に紛れ込んでいる。


 アウグスタは屋敷から遠く市場の一角を見つめ、かつての子供たちの笑い声と無邪気な日常を思い出す。

 手応えとしての「順調さ」と、裏側で燻る「不穏の火種」。どちらも現実であり、心の奥に重くのしかかる。


 そして、遠くで小さな喧騒が耳に届くたび、ふと意識の奥に、過去の断片が静かに蘇った。


 ——あの日。

 全てが、一瞬で崩れ去った。


 炎。叫び声。血の匂い。

 夫の声が、遠くなっていく。


「……死なせねぇ」


 その声が、今も耳に残っている


 街角のざわめきと、かつて失った日々の記憶が交錯する——

 気づけば、アウグスタの意識はあの惨事の光景へと、ゆっくりと引き寄せられていた。

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