隠棲賢者の養い子は、人探し屋の魔術師になりました──師に教わった"当然"が、世間でまるで通じない──

睡蓮華(すいれんか)

0章 最下層の子ども(6歳)

1 決別と邂逅

 なにが悪かったのだろう。


 生まれた場所?

 選べなかった親?

 運?

 それともこれまで、最善と信じてやってきたこと?


 今このときにおいて。六歳のラトが出した答えは「全部」だった。




「それ以上近づくんじゃねえ! ガキの首へし折ってやる!」


 首って折られたらどうなるんだろう。

 嗅ぎ慣れたタバコのにおいに包まれて、ラトは考える。

 死ぬ気がする。だって、首を絞められてるだけで苦しい。その先なんて考えたくもない。


 がなりたてる兄貴を追いかけてきた大人たちはそれ以上近づいてこなかった。近づいてはこないけど、逃げてもいかない。ひそひそなにかを話しながら逃げ道をふさいでいる。


 首にかかる兄貴の片手。固い部分があって大きいそれは、何度かラトの頭をくしゃっとなでてくれたことのある手だ。みんなを守ってくれるはずの手。いやなやつ、悪いやつを殴って追い返す、仲間の中で一番強い手。

 それが今、ラトの喉を潰そうとしている。


 ……『殺す』って、なんだっただろう。

 

 ジャマなやつ。役立たず。うるさいバカを捨てるときにすることだ。

 兄貴たちが笑って言っていたのをラトは覚えていた。


(兄貴はもう……、おれなんて、いらないんだ)


 ラトの腹の奥にはじめて冷たい炎が灯ったのはこのときだったのだろう。

 望みをなくした。全部終わりなんだと、目に映る景色、音、なにもかもが遠くなった。そんな凪いだ心に、生まれた小さな炎。


 本当に終わっていいのかと自分自身に疑問を投げかける──反抗の炎の種火が。




 一番強い兄貴の、特別のお気に入り。

 ちゃんと名前を覚えてもらえて、塩辛い干し肉、熱い炒り豆なんてごちそうも分けてもらえた。

 ……兄貴がよく吹かしていたタバコの煙は苦手だった。まともに吸いこむと咳が出るし、苦しくなったから。でもガマンした。特別でいたかったから。兄貴にとって意味のある、名前のあるなにかでいたかったから。


 今、兄貴にとってラトはなんだろう。

 いつでも捨てられる石ころみたいな盾? そもそも、それ以上のなにかだったことがあったんだろうか?


「本気にすんなよ」


 ラトの耳元で兄貴がささやいた。いつものように自信たっぷりに……でも、切れ切れの息で割れた声で。いつもの格好良さなんてどこにも持ってない。追いかけられて、捕まえられる手前のただの悪ガキみたいだ。


「演技。演技だよ。ほら、お前もやれよ。あいつら、子どもには手ぇ出せやしねえんだ。バカな大人に見せつけろ。いい声でわめいてみせろよ。そしたら隙見て逃げられる」


 隙? そんなのどこにある。どこからどうやって逃げる? おれを盾にして? それかあいつらに投げつけて? おれを捨てて?

 絶対にそうだ。盾にできるなら、飛び道具にだってできるだろう。


 ラトはもう、兄貴を信じられない。兄貴は自分を捨てていく。

 だってラトは兄貴の特別な弟なんかではなくて、都合のいい道具だから。最初から。たまに優しくされたのは、便利な手下になるかもしれない道具の手入れだ。


 泣け、わめけと言わんばかりに首に食いこんでくる強い指に。この手に。ただ、頭をなでられていられればよかった。

 居場所がほしかっただけなのに。


「これ以上罪を重ねるつもりか! お前の手下どもはもう全員捕まえたぞ!」

「知るか! あんなバカどもが捕まったからって、なんで俺まで捕まらなきゃいけねえんだよ!」

「その子どもを解放しろ! せめて首から手を放せ! 弟なんだろう!」

「こいつから手ぇゆるめたら、てめえら全員、力ずくで来るだろうがよ!」


 ラトを挟んで、兄貴と大人たちは怒鳴りあいを続けている。満足に息もできないラトにはもう、耳に入ってくるそれら全部が遠くて、どうでもいい。


「困ったな。犠牲は望むところではないのだよね」


 ──この呑気に聞こえる声が、ひりついた空気を一気に変えた。


 大人たちの間から踵を鳴らして現れたのは、闇色の髪の少年だった。

 目を惹いてやまない存在感。落ち着いた声。大人たちは誰も邪魔をしない。一瞬にしてこの場の空気を掌握した少年は、聞き取りやすいやんわりした中低音で兄貴に語りかける。


「恐喝。強盗。暴行、殺人未遂。未成年者への犯罪教唆。ホーク、君たちはやりすぎたよ。けれども今ならまだ、引き返せるかもしれない。国の法は、まだ、君たちの更生を願っている」

「なんだよ……てめえは……」


 低く、ケモノが威嚇するように兄貴が唸る。

 怖いんだろうか。この、兄貴と同じくらいの歳に見える、兄貴よりずっと細く見える少年が。


「君たちは成人とはいっても二十歳に満たない少年だ。真面目に手に汗を流し、労働に従することで犯した罪を許される。自由は保証できないけれど、生活は守られる。望めば今からでも職を手にできる用意もある。悪い話ではないはずだよ。君の仲間たちの中にも好色を見せてくれた者がいたからね」


 静かになった兄貴が、ラトには不気味でならなかった。

 ……首にかかったままの手が小刻みに震えている。


「それとも私の家の門戸を叩いてみるかい? 我が一族は武門だ。気骨、気概のある若者は貴重な人材だからね。君はまあ、少しばかり最初の矯正が厳重になりそうではあるけれど、よい素材をしていると見受けられるよ。って痛っ」


 にこやかになんだか変なことを言い出したんだけど……なんなんだろうこの人。

 すっと現れた青年が流れるように黒髪の少年の頭を叩く。すぱんっ、といい音がした。


「ええ? なにするんだいハラルド」

「こんな物騒なガキ勧誘してる場か。空気読め空気」

「読んでいるよ。ちょっとぴりつきすぎていたから和ませようと」

「どう見ても逆効果だわ」


 場違いな問答。後ろに控えている大人たちの空気もちょっと微妙なものに変わった。

 でも一番変わったのは、兄貴の気配だった。


「どいつもこいつも……俺を、バカにしやがって…………っ!」


 兄貴はラトの顔より太い腕をぶるぶると痙攣させ、全身を使って大きく呼吸をくり返してから。


「殺してやる……」


 低く、低く、ぞわりと総毛立つ声を。ラトの耳の横から絞り出した。


「いい家の生まれなんだろうなぁ? なにも困ることなんてなしに生きてきたんだろうな。土臭ぇ濁った水なんて飲んだこともなけりゃ、カビたパンを見たこともないんだろうさ。なあ、世間知らずのお坊ちゃんよ。偉っそうに。偉いのか? 親が? てめえが? どっちだよ。なあ」

「私は私の幸運を否定はしない。ただ、与えられてきたものを受け取ったに相応しい人間になることを目指している」

「そうかよ。だがな、いいことを教えてやるよ。てめえは無力だ! このガキと一緒の! 強いモンについてきゃあいい目が見れる、自分の力で運命切り開こうなんて考えもしねえ、薄っぺらの能無し野郎! それを! 思い知れ!!」


 喉が潰れる。呼吸が詰まる。もう一つの手が頭をねじろうと動くのが、なぜだかゆっくり見えた気がする。


 生きたかった。

 おれは。生きなきゃ、いけなかった気がしたのに──。




 ラトが兄貴から引きはがされたとき、ラトの首は折れもねじれもしていなかった。


 咳き込みながら空気をいっぱいに吸いこもうとするラトの背を、支えてさすってくれるだれかがいる。


 大人たちに押さえ込まれて暴れわめいている兄貴。それを静かに見下ろす黒髪の少年。


 ラトは体を折りたたみ、ぜいぜいとする胸を押さえて、思った。


──おれはもう。兄貴の弟にも、道具にも。ならなくていいんだ。






「ゆっくり食えよ」


 噛めば噛むほど味がするパン。腹にしみて、指先まであたためてくれるぬくいスープ。

 それらをラトに持ってきてくれたのは、ハラルドという気安い青年だ。彼はラトを警備隊の詰め所に連れていき、忙しそうな警備兵たちを尻目によっこいせと隣に座った。


「……ヒマなの?」

「そうそ。やることなくてヒマしてんの。だから、可哀想でアウェイな俺の相手してくれよ」


 なんとかという訓練? で王都からやってきて、明日には兄貴たちを連れてここを出るのだと教えてくれたハラルドは、話を聞くより食べ物をかきこむのを優先するラトにいろんなことを訊いてきた。

 名前。年齢。仲間のこと。兄貴とのこと。

 これからどうするのか。

 そして、助けてほしいならそうできると、ちょっと真剣な顔で言った。


「うちの坊ちゃんからの伝言。俺の仕事はあいつの護衛でね」


 警備兵の大人たちから報告を受けたり、指示をしたりと、一番偉い人がするような仕事をしている黒髪の少年を「あいつ」と指して。


「今あいつは学生って立場上、助けを求めてもないお前さんに一時的な施しより先のことはできない。だから、助けがほしいなら求めてくれ。そうすれば多少のお節介はできるからな。仲間に相談してきていい。こんな夜遅くまでここの周りをうろちょろしてる仲間にな。明日の昼前。それまでだ。忘れるなよ」


 兄貴に裏切られたばかりの、疑いの気持ちにあふれたラトに──ハラルドの、少年の「救いの手」なる善意は、とうてい信じることなんてできなかった。


 袋に詰まったパンと、飴玉。収穫を抱えたラトは、残った仲間たちのもとに向かう。なにか言いたそうに難しく顔を歪めていたハラルドに背を向けて。


 夜の闇と溶けながらラトは心に誓う。


──もうだれの道具にもなるもんか。


 自分の力で生きていく。

 強い者にくっついて、強い者に助けてもらわなくても生きていけるように。自分自身が強くなるのだ。






 ラトがこの日の選択を心から悔いるのは、たった半年後のことである。

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