0-2.まずい! まずいぞ!

 手の中でもがく幼竜が、ミルウスから脱出の機会を容赦なく奪っていく。


 若紫色の野生竜だ。

 まだ小さい。

 ヒトを乗せるために特別な訓練を受け、飼いならされた騎竜の仔ではなく、ヒトと接触のない野生竜が生んだ仔だ。


 闇雲に暴れている状態でははっきりしないが、発達した翼の形状からして、この幼竜は水を棲み処とする水竜ではなく、空に生きる飛竜だろう。


 辺境伯である父が治めるこのセイレスト領は、帝都から見て西に位置することから『西の果ての竜が空飛ぶ辺境地』と呼ばれている。

 領内にある『空天の渓谷』と呼ばれる魔力に満ちた渓谷は野生竜の群生地として有名で、領内では様々な竜を見ることができた。


 今、ミルウスと共に溺れかけている幼竜は、なにかのはずみで川に落ち、そのまま流されてしまったのだろう。


 幼竜がこんなにも混乱し、怯えているのは……水に溺れたからか、冷たい水に驚いたからか、それともヒトに触れられた不快感からか。

 思いつく限りの可能性を考えてみる。

 なんとかしてやりたい、しなければならない――そう焦る気持ちはあっても、今のミルウスの状況ではどうしようもなかった。


 こんなに幼い野生竜に触れるのは、ミルウスにとって初めての経験だ。

 一応、大人たちからは「手負いの野生竜と遭遇した場合の対処法」を教わってはいたが、実際はまるで勝手が違う。


「キュビビビ――ッ! キュビビビ――ッ!」


 ミルウスの手から逃れようと、若紫色の幼竜は手足をばたつかせ、羽を動かし、尻尾で彼の手を叩く。

 このタイミングでミルウスが手を緩めれば、力のない幼竜は濁流に飲まれ、溺れ死んでしまうだろう。


 ここで手を離せば……ミルウスがこの幼竜を助けることを諦めたら……。

 ミルウスは両手の自由を取り戻し、自力で岸まで泳ぎ着くことができる。

 それだけの体力は、まだ残っていそうだった。


 己の生命を守るためには、それが最も賢く、手堅い選択だ。


(た、たのむ……もう少しでいいから……おとなしくしてくれ!)


 ミルウスは幼竜を手放すのではなく、握る手にさらに力を込めた。

 幼竜が暴れ、ペチペチと鞭で打たれたような痛みが手に走るが、それでも彼は幼竜を離さない。

 流れが大きく上下し、ミルウスは再び水中へ沈んだ。


 流れに逆らう足の動きが鈍くなり、沈むたびに身体の動きがぎこちなくなっていく。

 視界もぼやけ、顔を水面に出していられる時間の方が短くなってきた。

 流されるだけでじりじりと体力が削られ、体温が奪われていく。


 景色が流れるように猛スピードで変化し、目が回りそうだ。


 この濁流から逃れるには、魔法の力が必要になる。

 だが、この冷たい水中で暴れる幼竜を抱え、激流にもまれながら呪文を唱えられるほどの技量はなかった。


 魔法よりも筋力強化を重視する家系に生まれ育ったばかりに……。

 悔しさともどかしさが、冷たくなりつつある少年の心にふとよぎる。


 ミルウスが生まれ育ったセイレスト家は、『竜に愛された一族』『竜と共に生きる一族』と呼ばれ、騎竜に騎乗できる竜騎士を多く輩出することで知られていた。


 その教育は徹底しており、幼少の頃から重視されるのは体力づくりと筋力の鍛錬だ。

 座学もまずは竜に関する学びから始まる。

 魔力を扱う訓練も、すべては竜と共存し、竜に乗るためにある。

 魔法も竜を操るために必要なものを最優先に学ぶ……。


 そのような教育方針のため、セイレスト家は他の貴族家とは少し毛色が違い、『脳筋一族』と呼ばれていた。

 しかも、それを褒め言葉として誇りに思い、その呼び名に恥じぬよう日々鍛錬を怠るな――と、ミルウスは教えられてきたのだ。


 ミルウスも今までは、その教えが正しいと思っていた。

 今日、川で溺れるまでは……。

 この状態になって初めて、筋肉だけではどうにもならないことが世の中にはあると痛感する。


 座学。魔法。知識。知恵。

 それらも筋肉と同じで、鍛えるだけではなく、骨の芯まで染み込ませなければならない。

 実戦で、窮地に陥ったときこそ活かせてこそ意味があるのだ。


(まほう……まほう……)


 息が切れ切れになる。

 強化魔法で筋力を高め、岸まで泳げばいい……それには気づいた。

 とても簡単なことだ。


 だが、肝心の魔法を唱えることができない。

 水を飲み込んでしまえば呪文が途中で中断される。

 流れとともに吸い込む息は冷たく、肺に溜まった水が内側から容赦なく体温を奪っていく。


 ミルウスは両手を天だと信じる方向に掲げ、幼竜を高く突き上げた。

 少しでも水から遠ざけようと、腕をめいっぱい伸ばす。


「ピッ! ピッ……ィッ……」


(やばい!)


 幼竜の鳴き声が小さくなり、抵抗が消えた。

 ミルウスの想いが伝わったわけではない。

 暴れすぎて、疲れ果てたのだ。


 顔を上に向けて幼竜の姿を確認すると、だらりと力なく垂れた尻尾と羽が見えた。

 明らかに様子がおかしい。ぐったりとして動かず、呼吸が止まったのかと疑うほどピクリとも反応しない。


 ミルウスの全身が緊張で固まる。


 ニンゲンの赤子も幼竜も、とても儚く脆い存在で、軽い病気や何気ない事故で簡単に命を落とすと聞いている。

 これは……非常に危険な状態ではないだろうか。胸の奥で不安が膨らんでいく。


(急いで水から救い出して、竜医に診せないと……)


 焦るミルウスを追い立てるように、水の流れがさらに速くなった。

 そして、今まで聞こえなかった音……爆発するような轟音が耳を打つ。

 太鼓の早打ちのような地鳴りが響き、嫌な予感が高まった。

 視線を動かせば、剣のように鋭く尖った赤い岩山が見える。


「ばっ……まず……いっ!」


 驚きに思わず声が漏れ、また水を飲み込んでしまう。


 あの赤い山には見覚えがあった。

 そして今、自分がどのあたりにいるのかも理解する。


(まずい! まずいぞ!)

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