田舎の竜は帝国の騎士に恋をする~ヒトに恋した竜の一途な想いは天空を駆ける~

のりのりの

序章――星散る夜空の色

0-1.キュビビビ――ッ!

「だ、だいじょ……うぶ……だぞ。だ、だ、ゴボッ。ブハッ。……だい、じょおぶ、だから……ゴホッ。ゲホッ」

「キュビビ――! キュビビ――!」


 呼吸が上手くできない。

 助けを求める幼竜の声が、少年の萎えかけた心を奮い立たせる。


(くっ、く、苦しい……。魔法だ! 魔法を唱えないと……)


 十二歳の少年ミルウス・セイレストは、呪文を唱えようと大きく口を開けたが、その選択は間違いだった。

 少年の口が開くと同時に、肺の奥へ冷たい水が勢いよく流れ込み、息が詰まる。

 あまりの冷たさに体が硬直した瞬間、ミルウスは水流に巻き込まれ、ボコボコ、ガボガボと音を立てながら水底へと沈んでいった。


 この地域は雪がめったに降らず、積もることもない土地ではあるが、決して温暖地帯というわけではない。雪害がないだけで、冬の寒さはそれなりに厳しく、壱ノ月いちのつきは一年で最も冷える月だ。

 当然、川の水も凍えてしまうほどに冷たい。


 いつもは澄んでいる水中が茶色く濁り、視界はとても悪い。

 泥の他にも木屑や木の葉、千切れた水草などが混じっている。


 ゴウゴウと唸る水音の中に、幼い竜の甲高い鳴き声が聞こえた。

 生命の危険を察知し、親を呼ぶときの鳴き方だ。


(ま、まずい! このままだと溺れる!)


 恐怖を振り払おうと、ミルウスは強く足を動かした。蹴り上げる勢いを利用して、なんとか水面に顔を出す。

 咳と一緒に慌てて水を吐き出すが、新しい空気を取り込もうとすると、また頭から水を被ってしまった。

 刺すような冷たさに声も出ないまま、ミルウスはなすすべもなく巨大な力に流されていく。


 両手が塞がっているので、思うように泳げない。息をするだけで精一杯だ。足を懸命に動かすが、なにもできず、激しい濁流から逃げ出せない。

 景色が目まぐるしく変わる中、川岸がちらりと見えたが、それはとても遠い場所にあり、少年の手には届きそうにもなかった。

 その距離に、絶望感が押し寄せる。


 服に縫いつけられた防御の魔法が発動しているようだが、それは外からの強い衝撃や生命を脅かす魔法、あるいは暗殺といった悪意に対して効果を発する類のものだ。

 今のこの状況では効果も薄く、あまり期待できない。


(ダメだ! 慌てるな! まだ大丈夫だ。大丈夫。あきらめたらダメだ。冷静に……冷静になるんだ! 魔法を使うんだ……)


 ミルウスは己に必死に言い聞かせた。助かるためには、自分自身が落ち着かなければならない。


「キュキュビビ――! キュキュビッ!」


 手の中の仔も、生きようと必死にもがいている。この仔のためにも負けるわけにはいかない。

 その小さな生命の重みと動きが、冷水と格闘するミルウスに抗う力を与えてくれる。


 ミルウスは岸の方を睨みつけ、意識を集中させた。体内を巡る魔力の流れを掴み取り、必死に操る。

 魔力がまだ残っているということは、ミルウスの生命の炎は消えておらず、助かる見込みがあるという証だ。


 険しい山間を流れる川は流れが急で、岩も多い。水底は深く、足で探ってみても水を蹴るばかりで底には届かない。

 勾配もきつく、流れの勢いはどんどん増していく。水の動きはまるで気まぐれな竜のようで予測がつかなかった。

 今は穏やかな晴れ間となっているが、数日前から降り続いた豪雨の影響で川は増水し、ゴウゴウと不気味な音を立てて荒れ狂っている。

 岩にぶつかって跳ね上がった氷まじりの水飛沫が、ミルウスに容赦なく襲いかかってきた。


「グ、グハァッ!」

「キュビ――ッ!」


 飛沫を避けようとした瞬間、いきなり景色が変わる。


 ミルウスはあっという間に大きなうねりに巻き込まれた。天地が逆転し、鼻にツンと痛みが走る。

 集中がぷつりと途切れ、高めていた魔力がすっと消えていく。


 冬の川は容赦がない。

 魔法を発動させるには、体内を巡る魔力を整えなければならない。だが今は呼吸することが最優先で、魔力を整えるどころではなかった。

 それどころか、詠唱呪文を思い出す集中力すら、根こそぎ奪われていく。


 そもそも、この状況でどの魔法を使えば助かるのか……人生経験の浅い少年には、知識も応用力もまるで足りていなかった。

 なんの力もない、無力な存在である。


 激しい濁流に飲み込まれ、翻弄され、体力はどんどん奪われていく。

 同年代の中では鍛えている方だと思っていたが、大自然の激流が相手では少年の抵抗など無意味で、その存在は川に流れる木の葉のようにちっぽけだった。


 鍛えた筋肉も、毎日の武術鍛錬も、夏ごとに行ってきた水練も……増水した冬の川を前にしては、まるで役に立たない。

 こんな状態なのに、己の慢心を深く反省してしまう。


 どれだけの時間、こうして水の中に浸かっているのか。自分がどのあたりまで流されたのかも、もうわからない。

 川に飛び込んだ直後と比べると、手足はどんどん冷たくなり、体が重くなっていく。


 ――いや、気のせいではない。

 真冬の寒い季節に、裾の長い防寒着を着たまま川へ飛び込んだのが、そもそもの誤りだった。

 厚手の服は冷たい水をみるみる吸い込み、石のように重くなった布地が体にべったりと貼りつく。

 それが見えない枷となり、少年の動きと生気を奪う。


 服を着たままの水中活動は危険だと、あれほど教えられてきたのに……。

 川に流され、溺れている幼竜を見た瞬間、ミルウスの頭の中からは今まで教わってきたことがすっかり抜け落ちてしまったのだ。


「キュビ――! キュビビビ――ッ!」

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