Scene 4-4「収束域/喪失前夜」

 静まりかけた空間に、微かな”歪み”が残っていた。


 その中心で、少年は立っていた。


 ユイの身体を包んでいた《Null-Linkナールリンク》の残滓ざんしが、揺らめくように空間へ溶けていく。

 

 暴走ではない。

 ただ、“在る”ことそのものが光として残った。


 その様子を、統制部隊の隊員たちは誰ひとり言葉を発せず見つめていた。

 戦闘中の緊張とは異なる、説明できない“気配”の残響。


 誰もが判断を待っていた──この状況を“命令”で終わらせていいのかどうかを。



「……もう、止めなさい」


 沈黙を破ったのは、クロエ・ラインバーグだった。


 彼女の声音には、冷徹な命令の調子はなかった。

 それは明らかに、彼女自身の“選択”だった。


 すぐ後ろに控えていた通信副官が思わず動こうとしたが、クロエは手を上げて制した。

 その指先は微かに震えていた。


 この判断を下した瞬間、私は――。


 自らの判断で逸脱した命令。

 その意味を、彼女は誰よりも理解している。


「統制部第一小隊、術式展開を解除。記録ライン遮断。以降、現地指揮は放棄する」


 ZoneHoldゾーンホールド《全域封鎖術式》の光が沈み、崩壊しかけた空間構造がようやく安定を取り戻す。


 けれど、それはあくまで表層に過ぎなかった。

 記録され得ない領域──魂律と記憶が重なった、深層の座標。


 レオンが、一歩だけ彼女に近づく。

 短く言葉をかける。


「命令は、もう終わったんだよ」



 クロエはわずかに息を詰め、しかし、すぐに目を伏せた。


 口元がごく僅かに揺れる。



「……命令では、どうにもならないこともあるわ」


 それは、かつてレオンの部下だった頃の“彼女”の声音だった。


 冷たい制御官ではなく、人としての声。


 


 ユイは、ゆっくりと顔を上げる。

 白銀の前髪が静かに揺れ、淡い光が頬を照らす。


「……ありがとう、クロエさん」


 それは、どこまでも素直な言葉だった。

 敵意でも責めでもなく、ただ、自分が“ここにいること”を許された感謝。


 クロエは、その言葉を受け止めきれないように、少しだけ目を逸らす。


 ただ、その一瞥には“兵器”ではなく“少年”を見つめるまなざしが、確かにあった。


 後方の隊員たちが、徐々に術式展開を解除していく。


 空間が静かに、本来の“現実”へと戻っていく。


 クロエは背を向け、無言で歩き出した。


 


 その背に、ユイの声が届いた。


「……僕のことも、カイルのことも……残して」


 その言葉に、クロエの足がほんの一瞬だけ止まる。


 振り返ることはなかった。

 けれど、ほんのわずか、肩が揺れた。


 やがて、彼女の姿は施設の出口へと消えていく。


 術式の光が完全に沈みきった時、世界は静かになっていた。

 構造の揺らぎも、警告音も、もうなかった。


 レオンが横に立ち、息をついた。


「……終わったな」


 ユイは、小さく首を振った。


「違う。ここからが、始まりだから」



 その瞳は、確かに前を見ていた。


 誰かに言い聞かせるようでもあり、自分自身への誓いのようでもあった。


 ふと、空間に“音”が差し込む。

 誰も声を発していないはずだった。

 なのに、確かにそこに“誰か”の声が届いた。


──……ユイ、ありがとう。


 その声は、風のように優しく。

 熱のように儚く。


 耳ではなく、心の奥に直接触れてくるような感触だった。


 ユイの唇が、微かに震える。

 けれど、涙は流れない。


「……うん。僕も、ありがとう、カイル」


 その声は、すでに届かないかもしれない。

 けれど、それでいい。


 ユイは確かに“伝えた”のだ。

 

 警告灯が完全に落ち、施設の照明も静止した。


 空間は、ただの“廃棄区域”へと戻っていく。

 だが、その場所に刻まれた記憶と魂律は、もう誰にも消せない。


 レオンがユイの肩に手を置いた。

「……行くぞ」

「……うん」


 二人の背中を、早朝の微かな風がそっと押す。

 

──そして、夜が明ける。

 

 

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