Scene 4-3「命令なき殺意 」

 爆ぜた静寂が、時間の流れすら変質させていた。


 歪みきった空間の中心で、クロエ・ラインバーグは制御構文を再展開する。


 すでに発動中の《Voluntasヴォルンタス:QuietクワイエットObservanceオブザバーンズ_θシータ》――それがさらに強化され、空間全域に渡る“静寂の観測領域”が拡張された。


「……術式発動速度、規定値以下に抑制。干渉密度、優位を維持」


 だが、クロエの眉間には深い皺が寄っていた。


 術式が静止させたはずの空間――その中心にいるユイの存在だけが、“ずれて”いた。


 時間が鈍化している構造の中で、彼だけが微細に“ぶれている”。

 精神と外界の境界が曖昧になっていく共鳴暴走の兆候。


「……こんな術式構造、統制局のデータにはない。なぜ――」


 クロエは術式知識の限界を悟る。

 これは軍の体系でも、統制局の観測ログにも存在しない。


 ユイの体を包むように、青白い光膜が波打つ。

Null-Linkナールリンク》――魂律ベースの異常構文。それが閾値いきちを超え、個の輪郭を解き始めていた。


「ユイ……戻れ!  制御限界を超えてる! 」


 レオンの声が響く。


 だがユイは、虚空を見つめたまま、微かに首を振る。


「……わかってる。でも……今だけは……」


 彼の術式が揺れるたびに空間が軋み、断続的に“記憶”が浮上し始める。


 クロエの眼前に、一瞬の幻影が現れた。


 誰かの笑い声。

 雨の音。

 ひとつのベンチに座る、幼い少年たち。


 その中に――確かに、白銀の髪のユイがいた。


 いや、それは“記録”ではない。

 彼の魂律が刻み込んだ、“記憶の真実”だった。


「……これが、あなたの中に……」


 クロエの声音が、わずかに震える。


 記憶共鳴――

 意図せずして、ユイの術式が彼女の精神構造と接続したのだ。


 その記憶には、ユイが守ろうとした小さな存在――カイルの残響が刻まれていた。



『……ユイがいるから、大丈夫だよ』



「……あれは……」


 思わず言葉を落とすクロエに、ユイが振り返る。


「……カイルがいたんだ。忘れないで、あなたも……! 」


 涙が滲んでいた。

 だがそれは、絶望ではなく――確信の涙だった。


「忘れないで。……あの子は、ここにいた。僕の中で、生きてるんだ」


 クロエは息を呑む。


 目の前にいるのは、命令で分類された“兵器”ではなかった。


 感情と記憶を抱え、誰かを想い、誰かを残したいと願う、ただの少年――人間だった。


――その瞬間。



 ユイの術式が、再び大きく変調する。



 “にじむ”ような残響――

 空間の構造が崩れ、ユイ自身の存在が曖昧になっていく。


「っ、限界か……! 」


 レオンが前へ出る。

 その手のひらに浮かんだのは、別の術式構文。


「ユイ、もうお前一人じゃない」


 レオンの声には、迷いも、怒りもなかった。

 ただ、家族を抱くような静かな意志が宿っていた。



「今度は俺が、隣にいる。だから――もう、抱え込むな」


 術式が点灯する。


 共鳴補助術式〈Voluntasヴォルンタス:SoulSyncソウルシンク_δデルタ〉。


 レオンの魂律が、ユイのそれに“同調”する構文。


 共鳴フィールドが重なり、揺れ続けていたユイの存在が、わずかに安定を取り戻す。


「っ……これが……レオンの、魂律……」


「温かい……こんな、色だったんだ……」


 空間の歪みが、静かに消えていく。


 クロエは、二人の姿を見つめながら――

 術式では説明できない胸の奥の痛みに、ようやく気づいた。


 命令を超えた、何かがそこにあった。



 だが、それでも現実は動き出す。



――ピッ、ピッ、ピッ。


 クロエの腕章型術式ギアが、鋭くアラートを鳴らした。



『警告。術式判断コード:逸脱。任務遂行判定:不完全。再指示待機中。』



 画面には赤い文字が点滅していた。


“記録遮断の失敗”

“対象確保の未達”

“命令逸脱の疑い”


 背後から、統制部の術士が近づいてくる。

 その眼は、感情のない命令遂行者のそれだった。


「……クロエ少佐、指示を」


 その声に、クロエはゆっくりと振り返る。


 彼女の視線の先には、まだ微かに揺れる術式残響の中心にいる少年。


 それを守るように、まっすぐ立つレオン。


 その姿に――

 かつて軍の戦場で並び立った、“あの日”の彼が重なった。


(命令では、救えない命があると……あなたは言ったわね)


 クロエは、静かに目を閉じる。


 ──通信は鳴り続ける。

 

 クロエは引き金を落とさない。

 

「観測、続行」

 

 短い指示だけが、凍った空気に溶けた。

 銃口は下がらない。

 

 だが、誰も撃たない。

 

QuietクワイエットObservanceオブザバーンズ_θシータ》は維持され、封鎖は保たれる。

 

 三つの呼吸が、かろうじて同じ拍に合う。

 


 世界は、辛うじて、保たれた。


 

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