第4章 命令なき殺意

Scene4-1「断裂する座標」

 崩れた天井の隙間から、白い縁飾りのような光が滲んでいる。

 

 それは陽ではない。

 

 軌道面に入った術式の裂け目が、室内に“軋み”を落としているのだ。


 空間が、かすかに悲鳴を上げていた。

 壁は呼吸を忘れ、床は心拍を持たない臓器のように硬く沈黙する。

 

 床に散った端末の欠片が、ときどき勝手に震え、薄い高周波の尾を残して止まった。


 外縁部の床に膝をつき、ユイは胸元を押さえる。

 埋め込まれたコアが不規則に鼓動するたび、視界のふちに細いひびが走る。

 

 息は浅く、吸うたびに肺の底が砂利のように重くなる。


「……っ、また……」


 背後でレオンの掌に術式構成式が展開される。

 声は低く、焦りを押し込めていた。


「共鳴値、もう制御域の外だ」


Null-Linkナールリンクの状態、どうなってる?」


「……わからない。繋がってる。深く。どこまでが“僕”なのか、境界の線が消えそうで……」


 言葉がかすれた。

 記憶と記録、心と構造がずれていく。

 

 ユイは床に指先を触れ、微かな残留情報を辿る。

 

 指の下から冷たい霧のような映像片が立ちのぼり、すぐ崩れて消えた。

 

 誰かの足音があったはずなのに、幻影は音を持たないまま割れる。


「でも、止まったら……もう、会えない気がして……!」


 レオンは歯を食いしばり、共鳴抑制装置を起動した。青白い円環が足元に重なり、空間の断裂がわずかに沈む。


 彼はユイの背に手を添え、深い呼吸を合図する。


「このまま共鳴し続けりゃ、お前が消える。……防御じゃない。お前を中心に、術式ごと安定させる。俺も一緒に支える」


 同期式が噛み合い、ユイの魂律にレオンの波形が添えられる。

 

 拾い上げた呼吸が、ほんの少し整った。

 視界の輪郭がわずかに濃くなる。


「……また、声がする。かすかに。でも、確かに」


「幻聴だ、ユイ」


「幻聴でいい。届いてる気がするんだ。ここで終わってもいい。だけど、“あの子”がいたことを、誰かが覚えてるなら」


 少年の目に、年齢に似合わない重さが宿る。

 

 レオンは短く舌打ちし、構成をもう一段締めた。術式の輪郭線が室内の輪郭と干渉し、天井の亀裂が、音もなく別の“面”に置き換わる。


ColdNullコールドナール_γガンマ


 ユイは小さく唱え、情動を一段冷やす。

 

Emotionエモーション:ColdNullコールドナール_γガンマ

 強い感情(怒り・嘆き・恐怖)を素早く“冷やして”ノイズを削り、事実だけを拾うための即応フィルターの術式。

 

 胸の熱が薄い氷膜に包まれ、涙腺の衝動が静まった。


 静けさは冷たいのに、心拍だけがくっきりと浮かび上がる。


 空気の密度が再び変わる。

 

 気圧計では測れない圧が、内側から外側へ、外側から内側へ押し返してくる。

 

 手袋越しの掌に、線状の符号が皮膚下の血流と同期して灯っては消えた。

 

 合わせ鏡のように、二つの記憶が同時に“いま”になろうとしている。


(ここにいない誰かの、温度)


 短い体温の遺跡みたいなものが、掌を通して移ってくる。

 

 少年の肩幅に合う上着の重さ。

 雨の日の笑い声。

 白い息。

 手のひらで溶ける飴玉。

 

 どれも触れられる厚みを持ちながら、一瞬で消える。


「ユイ、目を閉じるな。呼吸を——」


 レオンの指が背骨の脇を軽く押す。

 吸って、吐け。それだけを示す実用の優しさ。ユイは頷き、指示どおりに波を作った。


 視界の端に、かすかに“人影”が立つ。

 振り返らない。振り返れば、そこにいないことが判ってしまう。

 

 ユイは床のひび割れと、そこから覗く細い光の線だけを見る。

指を伸ばせば届きそうな距離に、線はある。


Memorixメモリクス:Trace-Echoトレースエコー_δデルタ》。

 

 初歩式の針を、もう一度通す。

 

 だが針穴は風の渦に飲まれて位置を変え、縫おうとするほど布は別の模様にすり替わった。


(それでも——)


「僕は、ここまで来るのに、ちゃんと“正しい”こと、してきたのかな」

「正しいかどうかは、いつもあとでつく嘘だ。今は“お前を残す”が正しい」

「僕が残って、あの子がいない世界は……」


 言葉はそこで止まり、ユイは首を振る。

 胸の奥が急に空っぽになる恐怖。

 その穴を埋めるように、遠い柔らかな声が耳の奥で囁いた気がした。


——ありがとう。


「……聞こえた」

「俺には聞こえない」

「僕には、聞こえた」

 レオンは目を伏せ、ほんの一拍、手の力を強める。大人の手が子どもの背に体温を譲り、骨へ届く圧で呼吸のリズムを合わせてくれる。

 それでも空間のひびは止まらない。

 

 ユイの足元に髪の毛より細い“裂け目”が走り、床の模様の中へ消えた。

 ユイは掌を床に置き直し、思考の雑音を削ぐ。

 

ColdNullコールドナール_γガンマ」をもう一段、深く。

 

 世界の輪郭線が黒鉛筆のようにくっきり戻り、線は糸へ、糸は針へ、針は布——世界——を貫く。


「……見える」

「行け」


 

 許可。

 保証。

 背中から支える力。

 

 ユイは身体をわずかに乗り出し、指先で“線”を掬いあげる。


 古い自販機の点滅。

 床の模様に重なる運動靴の泥。

 青い静かな笑い声。

 手の甲に触れた温度。

——カイル。

 

 名前を口に出す前に胸がいっぱいになる。

 言葉にしたら割れてしまう。

 

 だからユイは言葉を飲み込み、線を握った。

 喉の奥の泣き声を、掬いあげた線がそっと縫い止める。


 その時だ。

 

 遠くで封鎖扉が低く軋む。


術式波形とは別種の、制御系の冷たい気配が境界ごと押し入ってくる。

 粉塵が一瞬、空中で停止し——音が引き抜かれた。


 レオンは顔を上げ、手のひらの構成を切り替える。視線がユイの前から通路の闇へ滑った。


「……来たか」

 レオンが構え直す。


 空気が、音を失った。

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