第二章:八百年の遺物

「これは、八百比丘尼の頭部だ」


天城源蔵教授が静かにそう告げた瞬間、早乙女アキラは息を呑んだ。


研究室の薄暗い光の中で、ガラスケースに収められたそれは、まるで時間が止まったかのような異様な存在感を放っていた。


乾燥しきった頭部は、閉じた目と微かに開いた唇を持ち、干涸らびた肌には無数の細かい皺が刻まれている。


それなのに、どこか生きているような、ぞっとするほどの生命感が漂っていた。


アキラの背筋に冷たいものが走った。


「八百比丘尼…本当に存在したんですか?」


アキラの声は、緊張と好奇心でかすかに震えていた。


八百比丘尼――人魚の肉を食べて不老不死となり、八百年を生きた尼僧の伝説。


それは、子供の頃、祖母が語ってくれた物語だった。


薄暗い縁側で、祖母はいつも少し悲しげな声で話していた。


「比丘尼は永遠の命を呪いとして背負い、孤独に彷徨ったのよ」と。


その声は、アキラの心に深い印象を残していた。


物語の中の比丘尼は、ただの伝説だったはずだ。


なのに、今、目の前にその「頭部」が現実として存在している。


頭が混乱し、胸の奥で何かがざわめいた。


源蔵は穏やかな笑みを浮かべ、ゆっくりと眼鏡を外した。


白髪交じりの髪が、窓から差し込む柔らかな光に照らされ、まるで銀の糸のように輝いた。


「私の家が代々守ってきたものだよ」と彼は静かに答えた。


眼鏡の奥で、彼の目はどこか遠くを見るようだった。


「この頭部の粉末を接ぎ木の結合部に振りかけると、どんな植物同士でも確実に定着する。まるで、命そのものを繋ぐかのようにね」


アキラは、源蔵の言葉に引き込まれるようにガラスケースを見つめた。


頭部は、まるでこちらを見返すように静かにそこにあった。


ガラス越しに見るその姿は、不気味さと同時に、どこか神聖な雰囲気すら漂わせていた。


科学者として鍛えられたはずの理性が、「これはただの遺物だ」と自分に言い聞かせる一方で、心の奥底では別の感情が蠢いていた。


それは、恐怖と、なぜか胸を締め付けるような切なさが混じる、不思議な引力だった。


「君に先日見せた副産物。あれは、台木の実の発現のようなものだ」源蔵が話を続けた。


「実験下で自然の現象を抑制しようとしても、結局は強いものが表に出る。自然の理には逆らえない。


触媒として使ったはずの比丘尼が、何割かでこうして発現する。つまり、これは比丘尼そのものではない。


比丘尼の頭部を模倣した植物細胞に過ぎないのだ」


二人の会話をまるで聞いているかのように、ガラスケースの中の頭部は、静かな威厳を放っていた。


アキラは、その姿に目を奪われたまま、源蔵の言葉を反芻していた。


「植物細胞に過ぎない」――と教授は言ったが、その言葉はどこか現実感を欠いていた。


この頭部が、ただの植物細胞の産物だとは思えなかった。


まるで、八百年の時を超えた存在が、ガラス越しに彼に語りかけているかのようだった。


アキラの視線に気づいたのか、源蔵は柔らかく笑った。


「驚いたかい? 君のような若い好奇心は、私には眩しいよ」


彼の声には、どこか懐かしむような響きがあった。


「君には、この話をしておこうと思ったんだ。君は私の研究を理解してくれる、数少ない学生だからね」


その言葉に、アキラの胸は熱くなった。


源蔵に認められた――その事実が、彼の心を強く揺さぶった。


大学に入学してから、源蔵の研究室に辿り着くことを夢見てきた。


夜遅くまで論文を読み漁り、志望理由書に何度も何度も書き直した情熱の日々。


それが今、報われたのだ。


だが、同時に、ガラスケースの中の頭部に対する奇妙な引力も強まっていた。


それは、まるで彼の心の奥底に潜む何かを呼び覚ますような、危険な魅力だった。


「教授…この頭部は、本当にただの遺物なんですか?」


アキラは思わず口にしていた。


声には、好奇心とわずかな不安が混じっていた。


彼自身、なぜそんな質問をしたのか分からなかった。


ただ、頭部を見ていると、理性では説明できない何かが彼を突き動かしていた。


源蔵は一瞬だけ目を細めた。


その表情には、どこか計り知れない影があった。


「ただの遺物かどうかは、君がこれから確かめることになるかもしれないね」


その言葉は、まるで謎めいた予言のようだった。


アキラの心に小さな波紋が広がり、胸の奥で何かがざわめいた。


研究室の中は、静寂に包まれていた。


窓から差し込む光が、ガラスケースの表面で反射し、頭部に不思議な輝きを与えていた。


アキラは、ふと自分がこの研究室に来た理由を思い出した。


源蔵の研究に魅了され、植物遺伝学を通じて世界を変えたいという夢。


それなのに、今、彼の心は八百比丘尼の伝説とその頭部に囚われ始めていた。


この出会いが、彼の人生を、そして源蔵の研究を、根底から変えることになる――


そんな予感が、アキラの胸を締め付けた。


「教授、この頭部は…どうやって手に入れたんですか?」


アキラはさらに踏み込んだ質問を投げかけた。


好奇心が彼を突き動かしていたが、同時に、どこか禁忌に触れるような緊張感も感じていた。


源蔵はしばらく黙ってアキラを見つめた後、ゆっくりと話し始めた。


「私の先祖が、ある漁村でこれを受け継いだ。


詳細は語られていないが、村の古老たちが『海の神の贈り物』と呼んでいたそうだ。


それ以来、代々天城家で守られてきた。科学者としては信じがたい話だが…」


彼はそこで言葉を切り、かすかに笑った。


「科学では説明できないことが、世の中にはまだまだある」その言葉に、アキラは背筋がぞくりとした。


源蔵のような科学者が、こんな神秘的な話を穏やかに語る姿に、どこか現実離れした感覚を覚えた。


だが、同時に、源蔵の言葉には深い確信が込められているようにも感じられた。


この頭部は、ただの遺物ではない。


科学と伝説の境界に立つ、特別な存在なのだ。


「君にはまだ話していないことがたくさんある」と源蔵は続けた。


「だが、君がこの研究室で学び、研究を進める中で、少しずつ理解していくことになるだろう。


比丘尼の頭部は、私の研究の鍵だ。だが、それを使うことは、同時に大きな責任を伴う」


アキラは頷きながらも、頭部の不気味な魅力に心を奪われていた。


それは、まるで彼に語りかけ、誘うような存在だった。


科学者として、その正体を解明したいという衝動と、伝説の神秘に飲み込まれそうな恐怖が、彼の中でせめぎ合っていた。


「さあ、今日はもう遅い。続きはまた明日だ」


源蔵が穏やかに言った。


アキラは名残惜しそうにガラスケースを一瞥し、研究室を後にした。


廊下に出ると、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


古びた研究棟の空気は冷たく、アキラの興奮した心を冷ますようだった。


だが、頭の中は八百比丘尼の頭部と源蔵の言葉でいっぱいだった。


この出会いが、彼の人生をどう変えるのか。


まだ見えない未来に、アキラの心は高鳴り続けていた。

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