「教授と比丘尼と僕」

をはち

第一章:憧れの扉

早乙女アキラは、大学構内の古びた研究棟の廊下を歩きながら、胸の奥で高鳴る鼓動を抑えきれなかった。


薄暗い廊下は、埃っぽい空気と、かすかに漂う薬品の匂いに満ちていた。


古い石の床に足音が響き、その反響が彼の緊張を増幅させる。


目の前には、目指していた場所――天城源蔵教授の研究室の扉があった。


重厚な木製の扉には、控えめな真鍮のプレートが掲げられている。


「植物遺伝育種学研究室 天城源蔵」


その文字を目にするたび、アキラの心は熱を帯びた。


この扉の向こうには、彼の夢のすべてがあった。


天城源蔵教授は、植物の品種改良における天才として学内外で名を馳せていた。


温暖化の影響で日本の米の収穫量が激減する中、彼は熱帯産の米と在来種を交配させ、従来不可能とされた品種改良を次々と成功させていた。


その手法は「接ぎ木による急ごしらえ」と呼ばれ、科学界に賛否両論を巻き起こしていた。


伝統的な育種学者からは「無謀だ」と批判され、革新派からは「革命的」と称賛された。


しかし、アキラにとって、源蔵の研究は単なる科学の域を超えていた。


それは、絶望的な未来に希望を灯す光であり、アキラの心を突き動かす情熱の結晶だった。


アキラは、大学に入学した日から源蔵の研究に魅了されていた。


高校生の頃、テレビで見た源蔵のインタビューが忘れられなかった。


「植物は人類の未来を救う鍵だ」と語る教授の目は、まるで星空のように輝いていた。


その日から、アキラは植物遺伝学の道を志し、源蔵の研究室に辿り着くことを夢見てきた。


受験勉強の合間に読んだ論文、夜遅くまで書き続けた志望理由書――すべてはこの瞬間のためだった。


深呼吸を一つ。


震える指で扉をノックした。


「どうぞ」


扉の向こうから、落ち着いたバリトンの声が響く。


まるで古いレコードのような、深みのある音色。


アキラの心臓が一瞬跳ねた。


彼はゆっくりと扉を押し開けた。


研究室の中は、整然としていながらも、どこかカオスを感じさせる空間だった。


本棚には専門書が隙間なく並び、机の上には植物のサンプルや実験器具が所狭しと置かれている。


窓から差し込む柔らかな光が、部屋に温もりを与えていた。


そして、その中心に、天城源蔵教授がいた。


白髪交じりの髪は、整えられながらも少し乱れ、細いフレームの眼鏡の奥で穏やかな目がアキラを見つめる。


教授の微笑みは、まるで春の陽光のように優しく、アキラの緊張を一瞬で溶かした。


「早乙女君、時間通りだね。さあ、入ってくれ」


源蔵の声は、まるで古い友人に話しかけるような温かさに満ちていた。


アキラは、胸の奥で何かが弾けるのを感じた。


憧れの存在にこうして声をかけられること。


それだけで、彼の心は満たされるようだった。


「はい、教授。ありがとうございます」


アキラはぎこちなく頭を下げ、研究室の奥へと足を踏み入れた。


視線を彷徨わせると、棚の片隅にガラスケースが目に入った。


そこには、異様な存在感を放つものが収められていた。


干からびた人の頭部のようなもの――その不気味な姿に、アキラの視線は釘付けになった。


それは、源蔵の研究の「秘密」だった。


アキラは以前、学会の論文でその存在を知っていた。


源蔵が開発した特殊な接ぎ木技術によって生み出された、異常な成長を遂げた植物の一部だった。


まるで人間の頭部のような形状を持ち、内部には未知の遺伝子配列が組み込まれているとされていた。


その姿は、科学の常識を超えた源蔵の革新性を象徴していた。


アキラは、その不気味さと美しさに同時に引き込まれた。


「驚いたかい?」


源蔵が穏やかに笑いながら言った。


「あれは、私の研究の副産物だ。失敗も多いが、時にこんな奇妙なものが生まれる。それでも、失敗から学ぶことは多いよ」


アキラは言葉を失い、ただ頷くことしかできなかった。


「恐らく、君も目にしたことはあるだろう。接ぎ木のスイカを育てると、よく接いだ下の台木が生長して、


スイカでは無く夕顔の実が育つことがある。強いモノが表に出る。研究であろうが自然の理には逆らえないのさ。」


源蔵の言葉には、失敗さえも未来への一歩と捉える深い哲学が込められているように感じた。


その時、研究室の電話が鳴った。


源蔵は軽く手を挙げてアキラに待つよう合図し、受話器を取った。


「はい、天城です」


短いやり取りの後、教授の表情がわずかに引き締まった。


「了解しました。すぐに準備します」


電話を切り、源蔵はアキラに向き直った。


「早乙女君、急な話だが、重要な来客がある。少し席を外していてくれるか?」


アキラは少し戸惑いながらも頷き、研究室の外で待つことにした。


廊下で待つ間、彼の頭の中は源蔵の研究とあのガラスケースの謎でいっぱいだった。


数分後、研究室の扉が開き、背広を着た男性と秘書らしき女性が入っていくのが見えた。


アキラは驚いた。


その男性は、テレビでよく見る小泉農林水産大臣だった。


研究室の中では、緊迫した空気が漂っていた。


小泉大臣は、源蔵の机の前に座り、開口一番こう切り出した。


「天城教授、単刀直入に言います。日本は今、未曾有の食糧危機に直面しています。


温暖化による米の収穫量の減少は、予想以上に深刻です。このままでは、10年後には国内の米生産が半減する可能性すらある」


大臣の声は低く、しかし力強かった。


「あなたの研究が、この危機を救う鍵だと考えています。


特に、熱帯産米と在来種の交配による新品種の開発を、国のプロジェクトとして正式に依頼したい」


源蔵は静かに耳を傾けていたが、目には鋭い光が宿っていた。


「大臣、プロジェクトの詳細を教えてください」


源蔵の声は落ち着いていたが、そこには挑戦を受け入れる決意が感じられた。


小泉大臣は資料を取り出し、説明を始めた。


「今後の気候変動に耐えうる米の品種改良です。高温多湿、異常気象、病害虫への耐性を備えた品種を、


5年以内に実用化してほしい。国の予算とリソースを最大限提供します」


アキラは、扉の隙間からその会話を聞いていた。


彼の心臓は再び高鳴った。


源蔵の研究が、国の未来を左右するプロジェクトに直結している――その事実に、アキラは改めて教授の偉大さを感じずにはいられなかった。


源蔵は、ただの研究者ではない。


彼は人類の未来を切り開く先駆者なのだ。


大臣が去った後、源蔵はアキラを再び研究室に呼び戻した。


「早乙女君、さっきの話を聞いたね?」


源蔵は穏やかに微笑んだ。


「これから、研究はさらに忙しくなる。君もその一端を担ってくれるか?」


アキラは目を輝かせ、力強く頷いた。


「もちろんです、教授!私にできることがあれば、何でもやります!」


その瞬間、アキラの胸には新たな決意が芽生えていた。


源蔵の研究室で、彼はただの学生ではなく、未来を切り開く一員として歩み始めるのだ。


あのガラスケースの「秘密」を含め、源蔵の研究のすべてが、アキラの夢と情熱をさらに燃え上がらせていた。

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