第2話
涼州には今、魏の遠征軍がいる。
涼州遠征に関しては
ただ冬の涼州遠征が過酷なのは分かったので、
ただ差し迫ってる状況ではなかったので、涼州騎馬隊の動き次第ではあったが、今の涼州騎馬隊を束ねている
曹操は凝り固まった考えを持つ人間が多い涼州連合の中では話が出来る方の人間と見て割と好んでいたようだが、夏侯惇は、韓遂という男はあまり好きではなかった。
信頼出来ない何かを持っているというか、
そういう意味では決して曹魏とは混じり合わないだろうが、
だから曹操は好んでいるのだろうが、夏侯惇は例え籠絡出来なくとも曹魏がいかに強大になっても媚び諂ってこない馬騰の覇気は好きだった。
自分達もかつて、袁家の威勢を理解しても媚びたりはしなかった。
手を結んでも先はないと見て、
馬騰を処刑する時、曹操は夏侯惇に珍しく「話があるなら聞く」と言った。
軍事はともかく、あまり政の助言を曹操に求められたことはない為、意外だった。
曹操はもしかしたら馬騰の処刑は涼州との関係を決定的にするものなので、投獄か処刑かは内心迷っていたのかもしれない。
珍しい問いかけが、迷っている友からの助けを求める声だったかもしれないが、そうも考えた上で夏侯惇は答えなかった。
馬騰は生きている限り、涼州騎馬隊を率いて曹魏に刃向かって来るだろう。
涼州は天然の要塞で、攻略するとなれば莫大な兵力を必要とする。
独立勢力であることを望んでいたが、
他の戦線の状況を涼州は注視していて、曹魏が少しでも他の戦線で苦戦している姿を見せれば、今までもあっという間に
そういう遣り取りがずっと涼州の間とは続いている。
夏侯惇はこの状況は気に食わなかった。
曹操ならともかく、これからは
涼州の脅威は実のところ、蜀や呉の脅威よりも身近だ。
攻略も出来ず、籠絡も出来ないならば、勢力を削ぐしか無い。
曹丕はまだ若いので戦いながら学んでいくものはたくさんあるが、涼州の扱いで苦心して行くことは目に見えていた。
夏侯惇は大陸の情勢を見通してはいないが、これから起きることはともかく、起きることが必ず分かっていることに対して無策であることは許せなかった。
だから
必要だったことだ。
これで涼州の状況が混沌として派兵が必要になった時は、そのことを曹操に迷って欲しくなかったから自ら涼州に赴こうと考えていた。
実際には、涼州連合の長である馬騰を失ったあと、全滅した馬一族の領地と次の長の座を巡り、涼州は内乱状態に入ったので、魏軍が派兵する必要性は無かったのだが。
しかし馬超は私憤を抑えきれず、一族を率いて突撃して来た。
あれは
『
そういう理由があり
涼州遠征を率いている
郭嘉が病で参戦出来なかった戦いで、大敗したので、気を遣って誰も話を聞かせないまま今日まで来ていたようなのだ。
話してやってる時の、郭嘉の目の輝いた様子が夏侯惇は忘れられない。
子供が面白い話を聞かせて貰ってると表現していい顔だったが、それだけではない。
自分もこれからそのような大きな戦に必ず関わってやるという、郭嘉が幼い頃から持っていた野心や決意が変わらず、衰えもせず瞳の奥に見えた。
死病と長く戦った郭嘉の中から、一番消えていて欲しくないと願っていたものだったかもしれない。
願ってはいたが、失われていてもおかしくはなかったもの。
失われていたとしても郭嘉のことを責めなかっただろう。
命を繋いでくれたことが奇跡のようなことだったからだ。
しかし郭嘉の瞳には戦う意志が燃えていて、
赤壁で、現れるはずの無い魏軍の背後に現れて、長江を見下ろす中腹から、真紅の軍服を纏い指揮を執っていた
夏侯惇は回廊の手すりに腰を掛け、柱に寄りかかった。
郭嘉の死を長く恐れていた曹操が何故今回に限りあんなことを、あんなに悟ったような静かな表情で言ったのか。
根性で「そんなわけあるか」と撥ね付けてやったが、ずっと気に掛かっている。
あのあと曹操は「そうか」と笑って、それで済ませたが、人を突然思いついたような軽い一言でここまで不安にしておいて、何をお前は優雅に客人と会って暢気に笑っているんだと言いたいものだ。
あれから曹操はその話はしていない。
涼州からは報せが来ている。
これは涼州から
自分が読んだところで今は何の動きもしようがないことが気に食わないのだろう。
だったら読まない方がマシだと思っているのだ。
無論、緊急性を要するもの――つまり曹丕から助言を請うような類いのものであれば、特別な使者が情報を持って来るため、涼州で何が起こっているかを示すだけの内容なのだ。
「見んのか?」
すると曹操は「見たいならお前は見ていいぞ」と笑って答えて来て、微かに持っていた怯えを曹操に見透かされた気がして気に食わなかった夏侯惇は強がり「別に見んわ!」と跳ね返してやって、そのまま書簡は積み上げられている。
客人と陶器かなんかを並べながら楽しそうに話している曹操の方を隻眼で見遣り、ふん、と夏侯惇は顎を逸らす。
本当は自分が気になって見たいくせに、あいつはああいう時は都合良く「お前が見たいならば」などと格好付けて俺を理由に使うんだ、分かったからには絶対に見たいとか言ってやらんと大将軍は意地を張った。
他人が曹操と夏侯惇をどのように見ようと二人は実際、今も昔もこんな関係だ。
大体
いやさすがに郭嘉に何かあれば曹丕が使者を曹操の許に遣わすはずだ、だから来ていないのだから涼州であいつは元気にやっているのだと、あれこれ筋道を立てて一人最近悶々としている。
「はぁ……」
大将軍が肩を落として深く溜息をつく。
ここに従弟の
「許都に
荀彧がいるならば、郭嘉に何かあれば曹丕にも「
曹丕の側にはまだいないだろう。
一番怖いのは、
郭嘉が死ぬかもしれないと言った時、曹操が落ち着いていたことだ。
病で郭嘉が死ぬかもしれないと言われた時はあんなに動揺し、感情を出してそれを否定しようとしたのに、この前言った時は穏やかな顔をしていた。
郭嘉を病で失う覚悟は出来ていなかったが、
戦で失う覚悟は、ずっと前からしていたということか。
夏侯惇は目を閉じた。
確かに……曹操は郭嘉が子供の頃から、様々な戦場に連れて行った。
そんなお前の腰に下げてる剣よりも長さの足りないようなガキを連れて行ってどうするんだ死ぬぞと言っても曹操は連れて行ったし、郭嘉も付いて来た。
『力の無い奴が死ぬのが戦場だ』
そう言って何度も脅したが、
はい! などと元気よく返事をして郭嘉は付いて来た。
そこはそんな笑顔で返事をするところじゃない。何が「はい!」だ! と説教しても何も変わらなかった。
『私は放浪癖があるので親ももう、家に縛り付けるのは諦めてます。
私が戦場をうろつくからといって、心配するような身内は一人もいませんから安心して下さい』
なんだあいつは捨て子かなんかなのかと、郭嘉の同郷である荀彧に尋ねたことがある。
彼は笑いながら「ちゃんと家も親も兄弟もいる子ですよ」と答えて来た。
『殿と同じです。家族も家もある。愛されてもいる。
それでも自分の居場所はここではないと、思う人はいる』
お前は付いてくるなと言うと、やけにその時は聞き分けよく分かりましたと言ったけれど、一瞬強い目で
郭嘉は出会った時から夏侯惇を少しも恐れず、常に人懐っこい笑顔を浮かべている子供だったが、あの時は恐らく怒りと共に留守を受け入れたのだろう。
ふと、夏侯惇はその時気付いた。
ずっと気に掛かっていたことだ。
長安に郭嘉が来た時、何かがおかしいと確かに思った。
それが何だったのかずっと分からなかったのだが、少年時代の郭嘉がこちらを強く見つめて来た表情を思い出した時に、突然腑に落ちた。
(そうか。俺は、
馬騰を処刑した時はどんな状況になるかは分からなかったから、俺も場合によっては涼州に行く覚悟があった。
だがそうはならなかったから。
俺は、今の涼州の戦況にはかつてほど興味を持っていない)
自分でさえ、自分が行くほどではない、司馬懿と賈詡に任せればいいかなどとあっさり思った戦場に……。
(何故郭嘉が興味を示した?)
それが不思議だったのだ。
夏侯惇も武人としては百戦錬磨で、戦場での自分の勘には絶対の自信を持ってはいた。
しかし軍師というものはもっと先を見据えて、大局を読む。
死病から蘇り、早くも戦場に焦がれた、それは真実かもしれない。
あれは小さい頃から戦場を好む子供だったからだ。
だが一度そう思うと、きっとそうだと気になって仕方なくなった。
涼州そのものではなく他の何かに、郭嘉の興味を引く得体の知れないものが、今回の涼州遠征にはあったのだと。
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