第3話


元譲げんじょう


 振り返ると、曹操そうそうがこちらへやって来るところだった。

 歩いて来たいたが立ち止まって、不意にこっちを眺めている。


「なんだ」


「いや。お前は口を閉じてそうして立っていれば、やはり絵になる男だな」

 夏侯惇かこうとんは唯一の目を半眼にする。

「口を開けば台無しだみたいに言うな。なにを突っ立ってる。もう話は終わったのか」

 曹操がまた歩き出して戻って来た。

「お前も律儀だな。いいんだぞ、城には山ほど護衛がいるんだ。お前の興味を引かない客との歓談なんぞお前が側で見張らんでも。たまには部屋でゆっくりしてくればいいだろう」

「五月蠅い好きでやってることだ放っておけ」

「まあ好きでやってるならいいけどな」


 二人で歩き出す。


「今日はいい気分だ」

 また曹操が言った。

「よし、今日はこれから城下に繰り出そう」

「繰り出すのはいいがまた気が変わったとか言ってそこから合肥がっぴにまで行くなよ」

「なんだえんに会いたくないのか」

妙才みょうさいに会いたいか会いたくないかはまた別の話だ!」

「さすがにお前とばかり碁を打つのは飽きて来た」

「むしろ今までよくも飽きなかったなおまえ……曹植そうしょくでも呼べばいいだろう。今長安ちょうあんにいるんだし」

子建しけんはついこの前呼んだ。あんまりにも呼んでいると周囲が五月蠅くなる」


 曹操は子供の中でも特に曹植を気に入っていた。

 世継ぎ争いには敢えて口は出さなかったが、子として、曹植の方を曹丕そうひより好んでいるのは明らかだった。

 夏侯惇は小さく息をつく。


「……そんなことは無いと思うがな。

 すでに態勢は決まって曹丕の戴冠式も間近なのだ。

 今になってお前が曹植を可愛がったところで、ではそっちにしようなどという馬鹿はいまい」


「曹丕は戴冠後は子建を重用することはないだろうな」


「別にいいだろう。他にいい補佐が山ほどいる。そもそも子建は乱世の王の器では無い。

 あいつは才ある詩人なのだろう。任から解き放って時間を与えてやれ。

 そういう形であいつの名は後世に残る」


 曹操が笑い声を出した。


「なんだ」


「いや……元譲げんじょう。お前今、初めて子建しけんが『王の器ではない』と言葉にしたな」

「……。そうだったか?」

「そうだ。今までは敢えて言わないようにしていただろう」

「そうだったか? 別にそんなことは無い。俺如きが世継ぎに差し出がましい口を挟む分際ではないなと思って全てにおいて口を閉ざしていただけだ。

 俺は曹丕そうひが王に相応しいとも、一度も言ったことはないはずだぞ」


「まあ確かにな……」

 まだ笑っている。


「本当に今日は機嫌がいいみたいだな。孟徳もうとく。今日は頭痛はないのか」


「ないな。今日は気分がいい」

「……前から聞こうと思ってたんだがお前のそのたまに言う『今日は気分がいい』というのは頭痛が全くない日に言ってることなのか?」

「突然どうした」

「いや何となく気になっただけだ」

「お前とは長い付き合いだが、今更そういうことを言ってくるのがお前の非常に面白いところだな」

「で、どうなんだ?」

「別に頭痛のことだけではない。何となく良い気分な日くらいお前にもあろう」

「お前はいつもはそういうこと言わないのに時々敢えて口にするじゃないか」

「そうか?」

「そうだ。何を感じ取ってそういうことを言うんだ」

「お前は自分が何かを察知すると、それを言葉にするのは壊滅的に下手くそなクセに他人にはちゃんと言葉で説明しろと言うのか」

 夏侯惇は腕を組んで、胸を張った。

「おおそうだ。お前は俺より百倍口達者だろ。だったらこういう時こそちゃんと言葉で説明して見せろよ」

 曹操は苦笑して肩を竦めた。



「――何やらずっと思索に耽っていたようだが。お前は何のことを考えていたんだ?」



「ん? ……なんだ。陶器の話に夢中になっていたのではないのか」

「お前は遠目でも見えるところにいると目立つ。だから特にやることないなら部屋にいろと言っているんだ」

「うるさいわ暇な時俺がどこでどうしようと俺の勝手だろ」

 夏侯惇かこうとんだけは、曹操が魏王ぎおうに就いたあとも接し方が全く変わらなかった。


「涼州のことだ」


 予想していなかったのか、曹操はほう、という顔をした。

「お前がか。何か興味あるのか?」

「興味があるっていうかな……」

「いいんだぞ。何か見てきたいものがあるならお前も自由に見て来たって」

 すかさず夏侯惇は苦い顔を見せる。


「たわけ。そうではないわ。

 その逆だ。俺は馬騰ばとうが死に、馬超ばちょうが蜀に向かった涼州には今や興味はない。

 馬騰を処刑した直後は、混乱が拡大して馬超が涼州騎馬隊の陣頭指揮を執り刃向かって来て、我が軍に甚大な被害が広がるようならば、俺自ら行って奴を始末して来てやろうと思っていたが。あいつらは馬騰を失ってから勝手に内紛状態に入っただろ。

 俺はそういうのは一切興味は無い」


 夏侯惇は困難な戦況は大好きだが、ゴチャゴチャした戦況は嫌いなのである。

 賈詡かく司馬懿しばいは難解な戦況を逆に好み、その中で様々な人間の思惑を読み解き、自分の望む流れを生み出すことを得意とする軍師だ。

 そういう意味では臨機応変に対応するので、混沌とした地に投入すれば優れた動きを発揮する。

 荀彧じゅんいく荀攸じゅんゆうはもっと先に自分自身の理想が立ち、相手の動きを読むばかりではなく主導的な手も打つ。

 

 郭嘉かくかはそのどちらもの要素も持っていた。


 ……曹操に似ているのだ。


孟徳もうとく。お前は今の涼州に興味があるか」


 夏侯惇が突然そう尋ねて来た。

 曹操は立ち止まり面白そうに夏侯惇の方を見たが、友は笑ってはおらず、唯一の瞳で彼の方を真っ直ぐ見抜いて来ている。


 しばし腕を組み、考え。


「いや。さほどは無いな。

 お前と同じだ。馬騰ばとうを失った直後が、涼州はどうなるか一番分からなかったが。

 今はある程度先を見通せる。

 あの程度ならば司馬懿や賈詡の手もさほど患わせまい」


 曹操が明確に答えると、そうか……と夏侯惇は一度視線を回廊の床に落とした。


 やはり曹操もそう見るのだ。

 なら郭嘉もそうであるはずだと、夏侯惇は確信した。


「俺でも涼州に今や興味を持ってない。

 ――何故郭嘉があの地に興味を持った?」


 曹操は夏侯惇の横顔を見る。

 実際、曹操が感じていた違和感の正体も曖昧で、感覚を上手く言葉で表現しないこの男が、時折言葉で神髄を言い当てて来ることが、昔から面白かった。


 時々曹操は夏侯惇の言葉で目が覚めることがあるのだ。


 一瞬目を留めたが数歩歩き、回廊の手すりに腰を下ろした。

 ここは高場で、眼下に大きな池を臨む。

 

「今回は興味のある無いではなく、

 単に戦場に久しぶりに出たかったのだろう。

 良い気分だったんだよ。多分な」


 曹操は目を細め、穏やかな声で言った。

 夏侯惇は息を飲む。

 

 曹操も、郭嘉同様隙の無い男ではあったが時々、愚かな隙を呼び込むことがあった。

 女や、矜持や、そういう人間らしい下らないことでだ。


 郭嘉も女に弱かった。

 俺が敵なら女にお前の命を狙わせるだろうから、どこへでも女のために出向くなと言ってるのに出向くし、いつもは慎重なのに死線に飛び込もうとするような死を恐れない所も持っている。


 感情。


 この二人が普段は大人しく飼い慣らしている感情というものが、爆発することがあるのだ。

 そうなった時には誰にも止められないし、例え自分自身でさえ愚かを承知でその道を突き進むことがある。


 いつもは感情で動かない人間が感情で動いた時、それはどうしようもないものだから。 

 曹操は郭嘉を少年時代から気に入り、側に置いて来た。

 神童だと謳われて来た男だが、曹操が郭嘉を気に入ったのは「聡明な子供だった」それだけが理由では無かった。

 そもそも曹操の周囲には優秀な子供は珍しくもない。

 夏侯惇もつまり、そういう子供達は見て来た。

 自分の小さな頃に比べたら、驚くほど優秀な子供達だ。


 ただ、郭嘉は確かに存在感が抜きん出ていた。

 そういうものの中に放り込んでも、埋もれない何かを持っているのだ。


 例えば幼い優秀な子供達でも、成長するにしたがって気付けば凡庸なものになって行ったりする者がいる。

 郭嘉はそういう意味では、幼い頃も今も変わらなかった。

 ある時口にする言葉が、夏侯惇の身体の奥まで突き刺さるような鋭さがある。

 それは普通ならば子供には到底刺せないような場所のことで、今も昔も郭嘉は変わらなかった。

 

 曹操が自分の子供の中で最も愛した曹沖そうちゅうは、優しい性格をしていたため、あまりそういう人を貫くような言葉は言わなかった。言わないままこの世を去ってしまったので、彼が成長したらどのようになったのかは永遠の謎だ。

 

 だが何となくだが、例え次の王に最も相応しいような男になっても、郭嘉とは違う類いの才になったような気がする。

 それほど郭嘉は異質だった。


 自分は曹操も、郭嘉も、完全には理解出来ない。

 曹操そうそうは同年代で、従兄弟だが兄弟のようにつるんで育った。

 郭嘉とは年齢に大きな開きがあるので、子供の頃は聡明さが忌々しく思えることの方が多く、毛嫌いしていたのを自分でもよく覚えている。


 しかし曹操は最初から郭嘉を気に入っていて、可愛がっていた。

 この二人は互いのことが理解出来るのだ。


 そういう郭嘉を不意の病で――幕僚の中で最も若い彼を病で奪われることは、曹操にとって理不尽以外の何物でも無かったのだろう。


 曹沖そうちゅうも、病で死んだ。

 長子の曹昂そうこうは戦場で、曹操を助けるために身代わりになって死んだ。


 曹沖のことは、曹操は今もあまり話さない。

 思い出すのが辛く胸に秘めているようだ。


 反対に曹昂のことは時々だが懐かしそうに話すことがあった。

 曹昂のことを話す時、曹操は穏やかな笑みも浮かべる。


 郭嘉が死病に掛かってそのまま死んでいたら、恐らく曹操は死後、あまり無闇矢鱈に彼を偲んだり、言葉に出して懐かしんだりしなかったはずだ。

 ただ胸に秘めて自分だけの思い出にしていっただろう。


 郭嘉が病を克服して戻った時、曹操は喜んだ。

 涼州遠征に行くと決めた時も、周囲は病み上がりなのだからもう少し時期を見てもいいのではないかと心配したが、曹操は「好きにさせてやれ」と笑っていて、気にも留めていなかった。


 郭嘉が戦場で死ぬことに、

 曹操は恐れが無い。


 折角病を克服して拾った命なのだから大切にするとか、慎重に生きるとか、

 そういう感覚がこいつらには全く無いのだ。


 夏侯惇は理解した。


 戦場に焦がれたのは事実かも知れないが、涼州を選んだのは絶対に妙だと、彼には謎めいた確信があった。

 あんな先の見えたやることも分かったような戦場に、郭嘉の気を引くものは何も無い。

 ならば馬超ばちょうが蜀に向かったことで涼州遠征が行われれば、その馬超を巡って蜀がどう動くか【定軍山ていぐんざん】の方に恐らく向かったはずだ。

 

 しかし【定軍山】も戦の要所ではあるが、赤壁後に拮抗した大陸の情勢を占うのはあくまでも……。



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