第2話 最後の配達
朝靄の中、いつもと同じように赤い自転車にまたがった。四十年間、雨の日も風の日も、この街の手紙を運んできた。今日が最後だ。
最初の家、田中さん宅。ポストに督促状を入れる。三ヶ月連続。この家、来月には競売にかけられる。奥さんは知らないだろう。
坂道を登って、二軒目。山田さんの古い平屋。今日は病院からの検査結果。封筒の薄さと、病院名から察しがつく。余命宣告だろう。そっと差し込む。
商店街を抜ける。かつては活気があったが、今はシャッターが目立つ。八百屋の店主が手を振ってくれた。「今日で最後なんだってな」と声をかけられる。この店も来月で閉店。言わなかった。
アパートの集合ポスト。201号室には不採用通知。薄い封筒でわかる。これで十七社連続。305号室には内容証明。たぶん離婚調停の書類。
公園の横を通る。ベンチに座る老人に挨拶。彼は毎朝ここにいる。「もう会えなくなるんだな」とつぶやかれる。先週、息子から施設入所の通知を配達した。
住宅地に入る。四十年間、手紙を運んできた。出生届の写し、婚姻届の受理通知、死亡診断書のコピー。人生の節目を、封筒の厚みと重さで知った。
でも一度も、中を見たことはない。
いや、一度だけある。
角を曲がると、最後の配達先が見えた。築三年の白い家。表札には「佐藤」。
ポストに手を伸ばす。今日の郵便物は、保険会社からの書類。
玄関のドアが開いた。
小学生くらいの男の子が飛び出してきた。「郵便屋さん!」
後ろから若い母親が出てきた。
「あの……今日で最後だって聞いて」
二十年前、この近くのアパートに住んでいた女子大生。
「実は、お礼を言いたくて」
彼女は息子の頭に手を置いた。
「この子の父親と結婚できたのは、あなたのおかげです」
知っている。
二十年前、彼女宛ての手紙を、一通だけ配達しなかった。
差出人は、彼女の当時の恋人。でも消印の横に、小さく口紅の跡があった。他の女の印。中身は読まなくてもわかった。別れの手紙だろう。
その手紙は、今も自宅の引き出しにある。
翌週から、別の男性からの手紙を配達するようになった。今の旦那だ。
「本当にありがとうございました」
男の子が前に出た。
「はい、これ」
小さな手から差し出された封筒。宛名には『ゆうびんやさんへ』。
受け取って、自転車に戻る。
配達カバンには、二十年分の配達しなかった手紙。離婚通知、自殺予告、詐欺の案内、脅迫状。すべて「たまたま」配達ミスとして処理された。
定年退職の今日、すべて焼却炉に投げ込む。
最後の手紙——男の子からの手紙も一緒に。
読まずに。
四十年間、この街の神様を気取っていた。
明日から、ただの老人に戻る。
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