第2話 鏡の街路

その夜。


東京の裏通りは、昼間の喧騒を完全に忘れたかのように静まり返っていた。

ネオンの光も届かぬビルの隙間に、ぽつねんと祠が立っている。

外装は木製だが、腐朽も風化もなく、まるで昨日建てられたばかりのように清潔で、しかしこの場に奇妙に溶け込んでいた。


「どうして……こんなものが。地図にも建築資料にも、どこにも残っていませんでしたよ」

美咲は囁くように言った。目は祠の鏡に吸い寄せられる。


黒崎は慎重に周囲を歩き、祠を観察した。

「人が建てたもののように見える……だが、存在そのものが、街の記憶に“ねじ込まれて”いる。まるでこの路地自体が、後から作り替えられたかのようだ」


美咲は小さく息を飲み、鏡を覗き込む。

その瞬間――映ったのは、血に濡れ、首を異様に折り曲げた自分の死体だった。


「――っ!」

彼女は絶叫し、後ずさって尻もちをついた。

反射的に『あれは私じゃない』と否定しようとするが、鏡の中の死体はまるで生きて苦しむかのように動いている。


「美咲!」黒崎が駆け寄る。

「……わ、わたしが……! 死んで……!」

震える声。頬から血の気が引き、涙が滲む。


黒崎は彼女の肩を掴み、落ち着かせようとする。

「落ち着け、幻覚に過ぎん……」


しかし、次の瞬間、黒崎自身も鏡を覗き込んでしまった。

そこには、ぎょろりと動く無数の眼が映っていた。

眼は確かにこちらを見つめ、鏡を越えて精神を穿ち、存在そのものを侵食してくる。


「……ぐっ……!」

喉が内側から潰されるような感覚。

肺から空気がすべて絞り出され、視界が暗転しかける。


「黒崎さん! やめてください!」

美咲は必死に腕を掴み、彼を鏡から引き離した。


黒崎は荒い息をつきながらも、美咲の手を握り返す。

「……危ない。これは単なる幻覚じゃない。何かが、俺たちを見ている」


「見てる……って、何が?」美咲の声も震えていた。

「……まだ分からない。でも、この鏡は異界への入口だ。触れれば、理性すら喰われる……」


背後で、路地の闇が微かにうねり、まるで生き物のように呼吸している。

水たまりの波紋が、誰も踏んでいないのに微かに広がり、金属的な低い唸りが響く。


二人は視線を合わせ、無言で頷いた。

恐怖に震える足を前へ進めるしかない――その先に、必ず答えが待っているのだ。


――だが、鏡の街路に潜む“深淵”は、まだその姿を完全には現していなかった。




数日後の夜。


黒崎は事務所の机に突っ伏していた。

酒瓶が横たわり、ノートには無意識に描かれた幾何学模様が鉛筆で刻まれている。

まるで見えない視線から逃れるための儀式のようだった。


「……まただ……また、見られている……」

背後を振り返るが、そこにあるのはただ窓と闇だけ。


一方、美咲は別室で息を荒くしていた。

夢にうなされるたび、鏡の中に横たわる自分の死体の光景を繰り返し見る。


「……わたし、いずれ……あの鏡に……」

その声は震え、部屋の空気を震わせる。


黒崎は立ち上がり、深く息を吐いた。

「……もう引き返せん。行くぞ、美咲」


「……はい、でも……」

美咲の声も震える。目は恐怖と決意で揺れていた。


――深夜の裏通り。


祠の鏡は淡い光を放ち、街全体を歪めて映している。

水たまりが微かに揺れ、路地の闇が波打つように動く。


「見て……あれ……!」

美咲が小声で叫ぶ。

鏡の奥には、反転した東京が広がっていた。

建物は傾き、空は赤黒く歪み、顔のない人影が路地をさまよっている。


黒崎がその光景を凝視した瞬間――

無数の眼が再び彼を直視した。


「ぐっ……!」

喉の奥を何かが締め上げる感覚。

彼の目から血の涙が零れ落ち、膝をつく。


「黒崎さん! 戻ってきて!」

美咲は必死に腕を掴み、彼を現実へ引き戻す。


二人は立ち上がり、互いの存在を確かめ合った。

黒崎は低く息をつきながらも、美咲に向かって小さくうなずく。


翌朝。


裏通りに立っていた祠は、忽然と姿を消していた。

残されていたのは、黒いガラス片のような破片だけ。


「……終わったのかな」

美咲は震える声でつぶやいた。


黒崎は何も答えず、路地を睨み続ける。

背後に感じる無数の視線が、まだ彼らを見据えているかのようだった。


――だが、鏡の街路の“深淵”は、完全に閉ざされたわけではなかった。

その存在は、静かに、しかし確実に二人を見つめ続けていた。


次回 第3話「記憶よりも早く」」


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