黒崎探偵事務所-ファイル02 鏡の街路
NOFKI&NOFU
第1話 夜の街路に消えた人影
九月の終わり。
昼の熱をわずかに残すアスファルトが、
夜気にじっとりと湿りを放っていた。
午後十時を過ぎても繁華街はまだ眠らない。
ネオンの洪水、スピーカーから漏れるカラオケの歌声、酔客の笑い声。
だが、一本裏へ入れば景色は一変し、そこは人の気配がすっかり絶えた無音の回廊となる。
生ごみの酸っぱい匂いが漂い、街灯の光を受けた水たまりは、どこか底のない穴のように黒く揺れていた。
その路地を、若い女性が小走りで通り抜けていく。
スマートフォンを握りしめ、画面の明かりを頼りに前へ進む。
革靴のかかとがアスファルトを叩く音が、やけに強調されて響いた。
「……早く帰らなきゃ」
呟きは、自らを落ち着かせるためのものだった。
背後に誰かがいるわけではない。
それでも、暗がりそのものが意思を持ち、
じりじりと背後から追ってくるような錯覚があった。
振り返れば、闇が牙を剥いているのではないか――そんな理不尽な予感。
そのとき。
建物と建物の狭間に、場違いなものが視界をよぎった。
古びた木の祠。
ビル街に不釣り合いなそれは、朽ちることなく、ぽつねんとそこに在った。
祠に嵌め込まれた鏡は、街灯の光も届かぬはずなのに、不自然なまでに透きとおった輝きを返していた。
――水面のようでもあり、虚空のようでもある、異様に澄み切った光。
「……なに、これ……」
足が止まった。
鏡の表面には、自分の顔が映るはずだった。
だが浮かんでいたのは、人の形をした“影”。
輪郭は彼女に似ているのに、口元がわずかに歪み、目だけが異様に深く沈んでいた。
「……っ」
瞬きをした刹那、彼女の身体は音もなく鏡へと吸い込まれた。
残されたのは、アスファルトに落ちたスマホと、
水たまりに波紋を刻む小さな靴跡だけ。
数時間後、通りを監視していた防犯カメラは、
女性が“闇の鏡”の前で忽然と姿を消す一部始終を記録していた。
――だが、その映像を再生した者は気づくだろう。
鏡の奥に消えた直後、画面の隅に『別の影』がこちらを振り返るように映っていたことに。
――数日後。
東京の片隅、雑居ビルの裏手にひっそりと佇む古びた建物。
木製のドアを開けると、古い紙とインクの匂いが鼻をつく。
部屋の奥には古地図や新聞の切り抜きが机いっぱいに広がり、その向こうで、白髪交じりの黒崎が老眼鏡を押し上げながら依頼人を迎えていた。
椅子に腰掛けたのは、一人の女性。
やつれ切った顔には眠れぬ夜の痕跡が刻まれ、震える指は、握り締めたハンカチに深い爪痕を残している。
「……妹が、帰ってこないんです」
その声は今にも途切れそうだった。
黒崎の低く落ち着いた声が返る。
「警察には?」
「……事故か、あるいは駆け落ちだと言われました。けれど、そんなはずありません。妹は真面目な子です。……それに」
女性は一度言葉を切り、唇をかみしめる。
「監視カメラを見た人が……言ったんです。妹は『鏡を見たあとで消えた』って」
室内の空気が、ぴんと張り詰めた。
美咲が思わず声をあげる。
「……鏡に、吸い込まれた……? まさか」
黒崎は老眼鏡を外し、指先でこめかみを押さえた。
「……鏡は、古来より『境界』を象徴する。生と死、夢と現実、あるいは――この世と異界。その入口としての伝承は数多い。まったくの虚構とは言い切れません」
依頼人は縋るように身を乗り出す。
「お願いです……。生きているのか、もう……そうじゃないのか。どちらでもいい。妹が、どこに行ってしまったのかだけでも確かめたいんです」
黒崎はしばし沈黙し、その瞳に探るような色を浮かべた。
「ただし、覚悟していただきたい。真実は必ずしも救いをもたらすとは限らない。あなたが求める答えは、安らぎではなく、恐怖かもしれない」
依頼人の目に涙がにじむ。それでも首を横に振らなかった。
「……知らないままでいるより、ずっといいんです」
美咲が小さくうなずいた。
「黒崎さん……受けましょう。私たちが見届けなければ、この人はずっと夜に囚われたままです」
黒崎は重く息を吐き、机に指を叩いた。
「分かりました。では調査を始めましょう。場所は――消えたのはどの路地です?」
依頼人は鞄から地図を取り出し、震える指で一点を指し示す。
「ここです。……あの夜、妹が最後に歩いていた通り」
赤いペンで囲まれたその場所を見た瞬間、
黒崎と美咲は、同時に言葉を失った。
――そこは、かつて都市伝説として囁かれた『姿を消す路地』と重なっていたのだ。
調査の第一歩は、その『鏡の祠』を探すこと。
黒崎探偵事務所の二人は、まだ見ぬ『深淵』の入口へと歩みを進めることになる。
次回 第2話「鏡の街路」
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