第1話 エンディングを迎えたので上京します
前世の夢を思い出したのは、エンディングを迎えてからちょうど一週間後のことだった。
夏休みも中盤に差し掛かり、そろそろ宿題に手をつけようと思っていた矢先。
ふと閃くように思い出したのだ。
――ゲームを作りたかったのだと。
前世の俺は大学一年生の普通のオタクだった。毎日のように秋葉原に通い、ギャルゲーやエロゲーを漁ってはバイト代をつぎ込む日々。
そんな俺には陰ながら夢があった。いつか東京のゲーム会社に就職して、自分の手で最高のゲームを作りたい。プレイした人間が幸せな気持ちになるような、ハッピーエンドの物語を紡ぎたいと、そう思っていた。
しかし不慮の事故に遭い、ちょうど三ヶ月前、この世界に転生した。
ギャルゲー『黒潮、大蛇、祈りの島』の主人公――
幸い、原作のゲームは履修済だったため、転生という非現実的な状況にもそこまで動揺することなく、すんなりと受け入れることができた。
しかし鬱ゲーなので油断できるはずもなく……。
この三ヶ月間は自分のことなんて考える余裕もなかった。ヒロインを救うことを主眼において、それだけのために奮闘してきた。その先のことなんて考えてもいなかった。
しかしエンディングを迎えたことでようやく心の余裕ができたのだろう。こうして夢を思い出すに至ったわけである。
「ゲーム会社に就職するためには島から出る必要があるな」
俺は静かな自室でポツリと呟く。
黒潮島にはゲーム会社どころかゲームショップすらない。
夢を叶えるためには、東京に上京するしかないのだ。いてもたってもいられなくなった俺はリビングで食器を洗っている妹の真昼に声をかける。
「真昼、少し聞いてもいいか?」
「お兄ちゃん?」
シンクの前で真昼が首を傾げる。
肩まで伸びるしなやかな長い黒髪は混じり気がなく、肌は対照的に透けるように白い。
くりりとした大きな瞳は深淵を思わせる深い藍色で、しばらく見つめていると吸い込まれそうな危うさがあった。
真昼は食器を置くと、わずかに首を傾げて微笑む。
「どうしたんですか?」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」
俺は言葉を選びながら尋ねる。それは純粋な疑問。島の外を知るための質問である。
「真昼はさ、島から出たことってある?」
その瞬間、真昼の指がぴくりと動いた。スポンジから水滴がぽたりと落ちて、静かなリビングに小さな音を立てる。
彼女の瞳が、ほんの一瞬、鋭く光った気がした。
「島からですか?」
「うん」
「どうしてそんなことを尋ねるんですか?」
こちらが質問したはずなのに、逆に向こうから問い返される。
「いや、なんとなく気になっただけだよ。ほら、夏休みももう半分過ぎたし、どこか出かけるのもアリかなって」
愛らしくて、純粋で、それでいて不安げな声音に、条件反射で誤魔化してしまった。
「島の外に出かけるんですか?」
「あくまでも可能性の話だよ」
俺はこの世界に来て三ヶ月なのでその前の記憶は一切ない。原作の知識と、なんとなく体に染み付いた習慣で、かろうじて秋吉秋空として生活できているだけである。
だから当然、原作以前のことは知らないわけで……、
「物心ついた時には既にこの島で暮らしてきました。そしてこれから島を出る機会なんて一度もありませんでした。ですよね? お兄ちゃん?」
「そ、そうだな」
「今までも、これからも、島を出ることはありません。ですよね? お兄ちゃん?」
「そ、そうかもしれないな」
「ですよね?」
念押しするように身を乗り出してくる真昼。そのあまりの迫力に俺の頬は引き攣っていることだろう。
「ならいいんです!」
真昼は濡れた手をタオルで拭くと、その深淵のような瞳を向けてくる。
「だってお兄ちゃんは約束してくれましたから」
数日前、血濡れた彼女を崖の上で抱きしめた時と同じように、不安と安堵が入り混じった複雑な笑みで……、
彼女は言った。
「――ずっと側にいてくれるって!」
※
最近妹の様子がちょっとおかしい。
原作の真昼は確かにブラコンだったけど、あくまでも義理の兄妹として、節度ある距離感だった。
少なくとも『ずっと』とか『一生』とか『永遠に』みたいな重々しい言葉が口癖ではなかったはずだ、
おそらく俺が強引に全員救済エンドを選んだせいで、ほんの少しだけ依存体質になってしまったのだろう。
まあほんの少しなので大丈夫だと思う。多分、おそらく。
一旦それは置いておいて、今は島から出る方法を模索することが先決である。
港にはフェリー乗り場があるので、そこから本土へのルートが分かるはずだ。
こんな時スマホがあったらとは思うが、あいにく俺は持っていない。大人でもほとんどの人は持っていないと思う。なぜならこの島には電波が入らないから。
電波が入らない理由は御三家の影響なのだが、どちらにせよ情報が入手する手段が少ないことは事実。
フェリー乗り場に行くのが一番手っ取り早いだろう。
そんなわけで翌朝、早速家を飛び出した。
「……暑すぎる」
黒潮島の夏は意外と蒸し暑い。朝晩は比較的涼しいが、日照時間が長く、太陽が照り付けている時間は暑くて暑くてたまらないのだ。
そのわりに突然スコールが降ったりするので、折り畳み傘は必須。というなんとも言えない気候である。
なので歩いているだけで自然と汗が噴き出してくる。
俺の家から港までは徒歩で十五分ほど。港へ続く坂道を下っていけば一瞬だ。
小道の両側には、緑が生い茂っており、遠くからは波の音が聞こえてくる。太陽に反射して輝く海は透き通っていて美しい。
にも関わらずどこか暗い雰囲気を感じるのは、そこらかしこに『御三家』の文字があるからだろう。近所の診療所も、定食屋も、島唯一のコンビニでさえも、御三家の力が色濃く反映されていて、嫌でもその名を目にしてしまう。
良くも悪くも、この島と御三家は切っても切れない関係なのだ。それはヒロインを攻略したからといって変わらないだろう。
港が近づいてくると、潮の香りが一層強くなる。フェリー乗り場の看板が見えてきた。
時刻表を確認すれば、脱出の第一歩になる。そう思って足を速めた瞬間――、
「だーれだ!」
突然、背後から何者かに視界を奪われた。柔らかい手が俺の目を塞ぎ、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「先輩、こんな朝からどこ行くんですかぁ?」
わざとらしいくらい甘ったるい声が耳元で響く。手を離されて振り返ると、案の定そこには渡良瀬叶愛がいた。
ふわりとした茶髪は、肩のあたりで軽くカールしていて、陽の光でほのかに輝いている。
服装は夏休みにも関わらずいつも通りの制服で、白いシャツと紺のスカートを身に纏っている。そのわりには校則には従う気がないようで、スカートは短く、第一ボタンを外した隙間からは鎖骨が見えていた。
そんな艶かしい部分から視線を外すと、俺は動揺を隠しながら問いかけた。
「叶愛? 朝っぱらからどうしてここに?」
「ふふ。偶然ですよ、偶然。もしかして先輩、わたしが寂しくなって会いに来ちゃったとか勘違いしてます?」
叶愛はくすくす笑いながら、俺に一歩近づいて……。
気がついたら彼女の指が俺の胸に触れていた。その感触に、一瞬ドキッとする。
からかっているだけのはずなのに、まるで鎖に縛られたような、そんな感覚に陥って……。
「そんなわけないだろ」
俺は咄嗟に強い口調で返した。
「そんなわけあるかもしれませんよ?」
叶愛はくすりと笑いながら正面に回ってくると、両手を後ろに組んで聞いてくる。
「ところで港には何の用ですか?」
「ちょっと散歩しようと思っただけだよ」
「普段はなかなか家から出ないのに珍しいですね。何かあったんですかぁ?」
何気ない口調で追求してくる。
別にやましいことをしているわけではなかったが、説明が面倒なので適当に誤魔化すことに。
「ほら、夏休みも後半だからさ。もうちょっと遊んだほうがいいかなって思ったんだよ」
「遊ぶ? そんなに遊びたいなら、特別に叶愛ちゃんが遊んであげますけど?」
「遊ぶじゃなくて揶揄うの間違いだろ」
今だってさりげなく俺の腕を掴んで、胸を押し当ててきながら上目遣いで見つめてくるし。動揺する俺を見て楽しんでいるようにしか見えなかった。
「ならこれからわたしと遊びに行きませんか?」
「ごめん。今日はちょっと用事があるから」
「……ふーん」
彼女の誘いを断ると、叶愛の声がほんの一瞬、鋭くなった。俺の腕を握る力がじわじわと強くなっていく。
「……まあいいです。わたし、先輩のこと信じてますから」
彼女はそう言うと、愛らしい笑みを浮かべた。でもその瞳には力強さが宿っているような気がして……、
「だって、先輩、わたしのこと見捨てないって、約束したじゃないですかぁ?」
俺のことを捉えて離してくれなかった。
「そりゃ約束したけどさ」
「わたし、信じてますから。わたしのこと置いていくなんてありえないって。絶対に見捨てないって」
甘い声でそう言うと、彼女はパッと俺の腕を離した。
その動きは軽やかで、まるで何もなかったかのように振る舞っている。でも、瞳だけは決して離してくれなくて――、
「先輩!」
叶愛は急に声を弾ませ、まるで確かめるように言う。
「ずっとずっと、わたしの先輩でいてくれますよね?」
その瞬間、彼女が浮かべていた表情は、あの時とまるで同じだった。数日前、月明かりの下、神社の境内で涙を流す彼女を抱きしめた時と同じ。
不安で、壊れそうな表情だった。
※
最近、後輩の様子がちょっとおかしい。
叶愛は元々小悪魔系のあざとい後輩という印象だった。初めて会った時は表面上では仲良く接しつつも、一定の距離感を保っているというか、少なくともまるで信用されていなかったと思う。
信じられるのは自分だけ。両親も味方もいない。頼れる人間なんて存在しない。だから周りとはドライな関係性を維持する。それが叶愛だった。
少なくとも『ずっと』とか『見捨てる』とか『わたしの先輩』みたいな重々しい言葉が口癖ではなかったはずだ、
おそらく俺が強引に全員救済エンドを選んだせいで、ほんの少しだけ依存体質になってしまったのだろう。まあほんの少しなので大丈夫だと思う。多分、おそらく。
さて、気を取り直してフェリー乗り場に向かおう。
坂を下り切ると、海岸沿いを一直線に進む。そして間もなく目的地が見えてきた。
フェリー乗り場の全面がコンクリートの建物だったが、潮風に晒されて若干色褪せている。しかし島の玄関ということもあり、中は意外と綺麗だった。
ガラス張りのチケット売り場の窓口には、時刻表と行き先の看板が掲げられている。俺はその中から行き先を確認した。
「…………………………」
なるほど。土佐行き9時発と17時発か。
どうやらフェリーは一日二本のようで、既に一本は出航してしまったため、今日は17時発のみである。
さすがに昨日の今日で島から出るつもりはないが、早めに出るに越したことはないだろう。
おそらく土佐とは高知県のことで、だとしたら東京に向かうのは非常に困難だからだ。四国は新幹線が通っていないだろうし、電車すらあるのか分からない。
そもそも大前提としては、ここはゲームの世界。舞台となる黒潮島以外の場所が本当に存在するかも定かではない。確認するべきことは無数にあるのだ。
よし! 一旦、島から出てみよう。
意を決した俺はチケット売り場に近づく。窓口には、日焼けで真っ黒のおじさんが座っていて、退屈そうに新聞を読んでいた。
「すみません! 明日の土佐行きのチケット、一枚お願いします」
おじさんは新聞から顔を上げると、無言でチケットを差し出してくる。
「500円」
ぶっきらぼうにそう言われ、俺はすぐさま財布から小銭を取り出した。
そしてチケットを受け取ると、じっとそれを眺める。
思いの外、簡単に入手できてしまった。明日の朝、俺は島から出る。
その瞬間、ふと三人の表情が頭をよぎったが、頭を振ってフェリー乗り場から出る。
これから俺は第二の人生を過ごすことになるだろう。
物語の主人公――秋吉秋空としてではなく、俺として。
そんな未来を想像すると、自然と笑みが溢れた。東京への第一歩、いいや、夢への第一歩だ。
フェリー乗り場を出ると、坂道を登っていく。
帰り道に見た海は太陽に反射してキラキラと輝いていて、まるで俺の門出を祝福しているかのようだった。潮風が頬を撫で、カモメの鳴き声が穏やかに響く。
こうして俺は一歩踏み出した。
だけど俺はこの時、知らなかったのだ。
チケットを買っている場面をヒロインに、よりにもよってメインヒロインの沙鳥に目撃されていたことに。
「秋空、どうして私を置いていくの?」
「どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして?」
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