第一話「女神の祝福とカボチャ畑」
アスファルトの焦げる匂いと、けたたましいブレーキ音。それが、田中大地という三十代サラリーマンの人生最後の記憶となった。
平々凡々。その言葉が絵に描いたように似合う男だった。これといった趣味もなく、ただ会社と家を往復するだけの毎日。そんな灰色の日々に唯一の彩りを添えていたのは、ベランダの小さな家庭菜園でトマトやキュウリを育てる、ささやかな時間だけだった。
だから、次に意識が浮上した時、目の前に広がる光景が信じられなかった。
そこは、どこまでも続く白で構成された、柔らかな光に満ちた空間。そして彼の目の前には、若草色の髪を風にそよがせ、慈愛に満ちた笑みを浮かべる絶世の美女が佇んでいた。
「はじめまして、田中大地さん。私は、豊穣を司る女神。あなたの魂を、ほんの少しだけお借りした者です」
女神と名乗った彼女の声は、春のせせらぎのように心地よく耳に響いた。
混乱する俺の心を読み取ったのか、女神は悲しげに眉を寄せた。
「あなたは、残念ながら命を落としました。誠実で、真面目に生きてきたあなたの魂が、このまま無に還るのはあまりに忍びない。そう思ったのです」
交通事故か。最後に見た光景を思い出し、諦観にも似た感情が胸に広がる。だが、それ以上に女神の言葉が気になった。
「それで、俺はどうなるんですか?」
「あなたの望む世界で、穏やかに生きてみませんか?」
女神の提案は、あまりに突拍子もなかった。俺の望む世界? そんなもの、考えたこともなかった。だが、脳裏にふと、あの小さなベランダ菜園の光景が蘇る。土の匂い、太陽の光、そして緑の葉が生き生きと育っていく様が。
「もし、叶うなら……農業がしてみたいです。広い土地で、たくさんの作物を育てて……静かに、暮らしてみたい」
我ながら地味な願いだと思った。だが、それが偽らざる本心だった。
俺の答えを聞いた女神は、花が咲くように微笑んだ。
「あなたの優しい魂に、ぴったりの願いですね。わかりました、その願い、私が叶えましょう。あなたに、私の祝福を授けます」
女神がそっと俺の額に指を触れると、温かい光が全身を包み込む。体の内側から、不思議な力が満ちてくるのがわかった。
「【豊穣神の祝福】。それは、あらゆる大地を肥沃にし、植物の成長を促し、恵みをもたらす力。あなたの新しい人生の、ささやかな手助けとなるでしょう。さあ、お行きなさい。あなたの名はアース。大地と共に生きる者として」
その言葉を最後に、俺の意識は再び柔らかな闇の中へと落ちていった。
次に目覚めた時、頬を撫でる乾いた風と、鼻をつく土埃の匂いで、自分が全く違う場所にいることを悟った。
ゆっくりと身を起こすと、視界に広がったのは、どこまでも続く荒涼とした大地だった。灰色の土は乾ききってひび割れ、そこかしこに拳大の石が転がっている。申し訳程度に生えている草も、元気がなく茶色く変色していた。
(ここが……俺の新しい生活の場所か)
まさにゼロからのスタート、いや、マイナスからのスタートと言っていいだろう。だが、不思議と絶望はなかった。むしろ、目の前の荒れ地を見て、心の奥底からフツフツと挑戦意欲が湧き上がってくるのを感じた。
「これが、俺の畑になるんだ」
呟き、大地に手を触れてみる。すると、脳内に女神の声が響いた。
『【豊穣神の祝福】を発動しますか?』
これが、俺のスキル。俺は迷わず、心の中で「はい」と答えた。
その瞬間、信じられない光景が目の前で繰り広げられた。
俺の手のひらを中心に、まるで波紋が広がるように、灰色の地面がみるみるうちに黒々とした、生命力に満ちた土へと変わっていく。地面に転がっていた石は、まるで土に吸い込まれるように消え失せ、乾いた大地はふかふかとした理想的な土壌へと姿を変えたのだ。変化の波は瞬く間に広がり、俺の視界が及ぶ限りの荒れ地を、極上の畑へと変貌させてしまった。
「す、すごい……」
あまりの出来事に、ただ呆然と立ち尽くす。これが神の力。これが俺のスキル。
我に返った俺は、すぐに作業に取り掛かった。幸い、転生と同時に、この世界で生きていくための最低限の知識と、農具、そしていくつかの種が与えられていた。その中に、前世の家庭菜園でも育てたことのある、カボチャの種を見つける。
(カボチャは生命力が強い。これほど肥沃な土地なら、きっとよく育つはずだ)
前世で培った知識を頼りに、俺は丁寧に畝を作り、一粒一粒、愛情を込めて種を植えていった。全ての種を植え終わる頃には、すっかり日も暮れていた。近くにあった粗末な小屋で眠りについた俺は、翌朝、さらに信じがたい光景を目の当たりにする。
小屋の扉を開けた瞬間、俺は自分の目を疑った。
昨日、種を植えたはずの畑が、緑の葉で覆い尽くされていたのだ。そして、その葉の間には、人の頭ほどもある巨大でオレンジ色に輝くカボチャが、ゴロゴロと実っている。
「嘘だろ……たった一晩で?」
これが【豊穣神の祝福】の効果なのか。植物の成長を促すとは聞いていたが、その速度はもはや異常としか言いようがない。
あまりの光景に立ち尽くしていると、ふと、視線を感じた。そちらに目を向けると、茂みの影から一人の少女が、驚きと畏怖が入り混じった表情でこちらを見つめていた。
長く尖った耳、透き通るような白い肌、そして森の湖を思わせる深い翠色の瞳。まるでおとぎ話に出てくるような、美しいエルフの少女だった。
彼女は俺の視線に気づくと、ビクリと肩を震わせたが、逃げる様子はない。その視線は、俺ではなく、俺の後ろに広がるカボチャ畑に向けられていた。
「あ、あの……」
少女が、か細い声で口を開いた。
「この畑……あなたが、やったのですか?」
その声は微かに震えていた。俺が頷くと、彼女の翠色の瞳が大きく見開かれる。
「信じられない……このアルト村の土地は、呪われているとまで言われていたのに。こんな……こんなに生命力に満ちた気配は、感じたことがない……」
少女はそう言うと、おずおずと畑に近づき、巨大なカボチャにそっと触れた。その表情は、まるで奇跡を目の当たりにした信者のようだった。
「私はリリア。この村に住んでいます。私には、植物の心……というか、その声が少しだけ聞こえるんです。でも、この村の植物たちは、ずっと苦しそうに泣いていました。土地が痩せて、生きる力が湧いてこないって……。でも、あなたの畑の植物たちはみんな喜んでいます。嬉しそうに、歌っているみたい」
リリアと名乗った少女は、うっとりとした表情でそう言った。彼女の持つ不思議な能力もさることながら、俺はその純粋な心に惹かれた。
「俺はアース。昨日、この村に来たんだ。よろしく、リリア」
俺が名乗ると、彼女ははにかむように微笑んだ。
「アースさん……。あなたは、もしかして、豊穣の神様が遣わしてくださった方なのですか?」
「いやいや、ただの農民だよ」
俺は苦笑しながら答えたが、リリアは納得していないようだった。彼女の目には、俺が神か何かに見えているのかもしれない。
この出会いが、俺の異世界での人生の、大きな転機となる。
俺はまだ知らなかった。この巨大なカボチャが、貧しい村に希望をもたらすと同時に、新たな厄介事を引き寄せることになるとは。
そして、目の前にいる心優しきエルフの少女が、俺にとってかけがえのない、最初の仲間になるということを。
こうして、元サラリーマンの俺、アースの異世界農業ライフは、巨大なカボチャ畑と、一人の美しいエルフの少女との出会いによって、静かに、しかし確かに幕を開けたのだった。
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