Ep.20 別れの旅路
Sunday, April 2nd, 2023
晴れ
Maryland Annapolis, United States
アメリカ海軍兵学校
(別れの旅、その最後の目的地。それは、俺という人間を、一度、完全に破壊し、そして、再構築してくれた場所。メリーランド州、アナポリス。米海軍兵学校だった)
九年ぶりに足を踏み入れた「ヤード」と呼ばれるキャンパスは、あの頃と、何も変わっていなかった。
セヴァーン川から吹き付ける、潮の香りを帯びた風。純白の制服に身を包み、壁際を直角に走り抜ける四学年(プリーブ)たちの、緊張に満ちた顔。俺は、もう、そのどちらでもなかった。私服姿の俺は、この、聖域のような場所に紛れ込んだ、ただの幽霊に過ぎない。
俺は、ヤードの中央にそびえ立つ、ハーンドン記念碑の前に、一人、立っていた。かつて、同期たちと、泥とラードにまみれながら、必死でよじ登った、あの灰色の塔。あれが、俺の、本当の始まりだったのかもしれない。
「――まさかとは、思ったがな。本当に、お前だったとは」
背後から聞こえた、懐かしい声。
振り返ると、そこに、二人の男が立っていた。
一人は、海軍大尉の、寸分の隙もないサービスドレスに身を包んだ、ミラー。
もう一人は、海兵隊大尉の、精悍な軍服を着こなした、ジャック。
アナポリスの、あの地獄を共に生き抜き、そして、卒業の日に、それぞれの戦場へと散っていった、俺の、唯一無二の、戦友たちだった。
「ハヤト! 生きてたのか、お前!」
ジャックが、熊のような巨体で、俺の身体を、壊れんばかりに抱きしめた。
「おい、カミヤ」ミラーは、腕を組み、昔と変わらない、皮肉な笑みを浮かべていた。「ずいぶんと、老けたじゃないか。どこの戦場で、油を売っていた?」
その夜、俺たちは、ヤード近くの、馴染みのバーにいた。
積もる話は、尽きなかった。ミラーは、水上艦乗りとして、世界中の海を渡り歩いていた。ジャックは、海兵隊員として、中東の、別の地獄を見てきた。
そして、俺は。
俺は、多くを語らなかった。ただ、ブラッドが死んだこと、そして、俺が、海軍を去ることを、静かに告げた。
バーの空気が、一瞬で、重くなった。
「……そうか」ジャックが、静かに、バーボンのグラスを掲げた。「……ブラッドに」
俺とミラーも、無言で、グラスを合わせた。カチン、と、グラスが触れ合う、硬い音。それは、ブラッドへの、そして、俺たちが、戦場で失くしてきた、全ての者たちへの、鎮魂歌だった。
「……これから、どうするんだ」
ミラーが、静かに尋ねた。
「日本へ帰る。俺には、まだ、やらなければならないことがある」
「そうか」
ミラーは、それ以上、何も聞かなかった。だが、その碧眼は、俺が、ただの平穏な日常に帰るわけではないことを、正確に見抜いているようだった。
「ハヤト」ジャックが、俺の肩に、その分厚い手を置いた。「お前が、どこで、何をしようと、俺たちは、お前の兄弟だ。それだけは、忘れるな」
「……ああ」
俺たちは、最後に、もう一度だけ、固い、固い、握手を交わした。
俺たちの道は、ここで、再び、分かれる。だが、俺たちの魂は、見えない絆で、永遠に繋がっている。
俺は、一人、アナポリスの夜道を歩きながら、そう、確信していた。
俺の、アメリカでの、全ての日々は、終わったのだ。
Monday, April 3rd, 2023
PM 10:00 EST
曇り
Virginia Beach, United States
基地近くのバー
(帰国前夜。俺は、クリスと二人、基地近くの、薄暗いバーの片隅にいた。ブラッドを失って以来、こうして二人きりでゆっくりと語り合うのは、本当に久しぶりのことだった)
バーの安物のスピーカーからは、くぐもったジャズが流れ、バーボンと、潮の匂いが混じり合った、独特の空気が漂っていた。俺たちは、琥珀色の液体が満たされたグラスを傾け、静かに言葉を交わしていた。会話は、全て英語だ。
「……いよいよだな。アニメとスシの国へ、お帰りか?」
クリスの声には、いつものような、静かな響きの中に、微かな皮肉と、そして、隠しようのない寂しさの色が滲んでいた。
「ああ。長かった」
故郷を離れて、九年。この、異国の地での戦いは、俺に多くのものを与え、そして、多くを奪っていった。
「お前がいないと、静かになるな。ブラッドが逝き、今度はお前か……」
クリスはそう言って、自嘲気味に笑った。その笑顔に、俺は、アフガニスタンの夜空の下で、初めて自分の過去を語ってくれた、彼の、不器用な優しさを思い出していた。
俺たちは、何も言わず、ただ、ゆっくりとグラスを掲げた。
「ブラッドに」
「ブラッドに」
カツン、とグラスが触れ合う澄んだ音が、静かな店内に響き渡った。その音は、まるで俺たちの心に響く鎮魂歌のようだった。
バーボンを、喉に流し込む。その熱が、胸の奥にじんわりと広がる。脳裏をよぎるのは、ブラッドの、あの、テキサスの太陽のように、豪快で、屈託のない笑顔だった。「約束……守れた……だろ……?」彼の最後の言葉が、今も、俺の魂に、重く、のしかかっている。
クリスもまた、ゆっくりと目を閉じ、何かを深く噛みしめるようにバーボンを飲んでいる。彼の脳裏にも、きっと、同じ笑顔が浮かんでいることだろう。
「……本当に、帰るのか」
しばらくして、クリスが静かに尋ねた。
「ああ」
「何のために? 全て、終わったはずだ」
「……まだ、終わっていない。俺には、払うべき、借りがある」
贖罪。その言葉を、俺は、バーボンと共に、腹の底へと飲み込んだ。
クリスは、それ以上、何も聞かなかった。ただ、静かに、頷いた。彼には、それで、全てが伝わったのだろう。
Tuesday, April 4th, 2023
AM 9:00 EST
快晴
Virginia, United States
ノーフォーク国際空港
翌日、クリスは、ノーフォーク国際空港まで、見送りに来てくれた。
搭乗ゲートへ向かう人々の波に逆らい、俺たちは、最後の言葉を交わすべく、人の少ない片隅を見つけた。
「平和な島国で、ヘマして死ぬなよ?」
クリスは、いつものように、茶化すような口調で言った。
「お前もな、クリス。高いところは、気をつけろ」
俺もまた、からかい半分に、だが心からの感謝を込めて返す。互いの安全を祈る言葉は、この世界で最も信頼できる友への、偽りのない友情の証だった。
固い握手を交わし、別れようとした、そのときだった。
クリスが、少し照れくさそうに、しかし真剣な、そして微かに潤んだ目で、俺に言った。
「……Matana, yujin」
またな、友人。
慣れない発音の、たどたどしい日本語。
だが、その一言に、俺たちの過ごした年月の重みと、言葉以上の、まるで血の繋がりにも似た強固な絆が込められているのが、痛いほど伝わってきた。
共に死線を潜り抜け、互いの命を預け合った日々。灼熱の砂漠をさまよい、極寒の大地を駆け抜けた。多くの苦難と、わずかな、しかしかけがえのない喜びを分かち合った記憶が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
俺は、ただ静かに頷き、言葉を返すことなく、タラップを上がった。
機体の窓から、遠ざかっていくクリスの姿を見つめながら、俺の心は、既に次なる戦場である故郷、日本へと向いていた。クリスとの別れは、過去との決別であり、新たな使命への覚悟を促すものだった。
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