Ep.19 最後の標的
現在
Sunday, February 5th, 2023
AM 3:30 EET
晴れ
Donetsk Oblast, Ukraine
ソレダール塩鉱山
(俺の最後の任務。それは、この凍てついた大地で、血を流し続けることだった。帰国の日まで、あと数ヶ月。その一日一日が、永遠のように長く感じられた)
バフムートの戦線は、膠着していた。敵は、圧倒的な物量で、じわじわと俺たちの防衛線を削り取っていく。
俺たちの次なる標的は、その物量作戦を後方から指揮する、ロシア軍東部軍管区司令官、ヴァレリー・ペトロフ大将。この肉挽き器の「設計者」だ。
「--Use the salt mines of Soledar.(――ソレダールの塩鉱を使います)」
俺が導き出した作戦は、狂気の沙汰としか思えない、大胆不敵な計画だった。かつてヨーロッパ最大の岩塩の採掘地として栄えた街。その地下に、総延長三百キロにも及ぶ、巨大な蟻の巣のような坑道が、今も静かに眠っている。その、忘れ去られた闇の道を通り、敵の心臓部の真下に出る。
案内人は、ミコラと名乗る、元鉱夫の老人だった。息子と孫を、ワグネルに殺されたという彼は、錆びついた声で言った。
「Я не вмію стріляти з рушниці. Але можу позичити тобі свої ноги та карту, вигравірувану в моїй голові. Я проведу тебе до зміїного гнізда.(ワシに、銃は撃てん。だが、この足と、頭に刻まれた地図なら、貸してやれる。蛇の巣まで、案内してやろう)」
塩の迷宮を抜け、俺たちは、目標の真下に到達した。
「...Chris(……クリス)」俺は、囁いた。「Shoot that rock salt crystal on the ceiling(天井の、あの岩塩の結晶を撃て)」
俺が指さしたのは、敵の警戒部隊がいる坑道の入り口の、真上に位置する、巨大な岩塩の塊だった。クリスの狙撃銃の、抑えられた発砲音。轟音と共に、数トンはあろうかという塩の塊が、坑道の入り口めがけて、崩落した。俺たちは、敵を生き埋めにし、先を急いだ。
「--Checkmate.(――チェックメイトだ)」
古い通気孔の隙間から、クリスの、最後の声が、ヘッドセットに響いた。
彼の狙撃銃が、これまでにない、重く、そして荘厳な咆哮を上げた。司令室の防弾ガラスが砕け散り、最後の弾丸が、驚愕に目を見開く、ペトロフ大将の眉間を、正確に貫いた。
肉挽き器の設計者は、声もなく、崩れ落ちた。
チャシウ・ヤールの拠点に戻った時、俺たちを迎えたのは、オレクサンドルの、熊のような巨体だった。彼は、何も言わず、ただ、俺たち一人一人を、力強く抱きしめた。
その腕の中で、俺は、自分が、この八年間で、初めて、涙を流していることに気づいた。
それは、悲しみの涙ではなかった。達成感でも、喜びでもない。ただ、この、かけがえのない仲間たちと共に、この地獄を生き抜き、そして、一つの、あまりにも大きな何かを終わらせたという、魂の奥底からの、静かな震えだった。
俺の、最後の奉公は、終わった。
Friday, March 31st, 2023
晴れ
California Coronado, United States
海軍特殊戦センター
(ドイツのラムシュタイン米空軍基地で、正式な退役手続きを終えた俺は、もはやDEVGRUの神谷隼人ではなかった。ただの、神谷隼人という名の、三十歳の日本人。その事実が、ひどく現実感のない、奇妙な浮遊感を俺にもたらしていた。俺は、九年間という、俺の人生を根こそぎ変えてしまった人々への、別れを告げる旅を始めた。その最初の目的地は、カリフォルニア州コロナド。地獄の、始まりの場所だった)
海軍両用戦基地のゲートをくぐると、潮風と共に、あの日の記憶が蘇る。
「貴様ら、蛆虫ども! ようこそ、BUD/Sへ!」
鬼のような形相で、俺たちの尊厳を、肉体を、精神を、粉々に砕いた男。シニアチーフ・マクブライド。俺は、その男に、会いに来た。
約束の場所は、訓練棟の裏手にある、海に面した小さなテラスだった。
彼は、一人、腕を組み、太平洋の水平線を眺めていた。九年前、俺が初めてこの地で見た時と、何も変わらない。まるで、時が止まったかのように。
俺が音もなく背後に立つと、彼は、振り返らないまま、静かに言った。
「……来たか、カミヤ」
「ご無沙汰しております、シニアチーフ」
俺が敬礼すると、彼は、ゆっくりと振り返った。その、全てを見透かすような鋭い眼光は、健在だった。だが、その瞳の奥に、ほんの僅か、俺が知らなかった色が浮かんでいるように見えた。それは、労い、と呼ぶには、あまりにも厳しく、そして、誇り、と呼ぶには、あまりにも静かな光だった。
「……ジャップ、と呼んでやろうかと思ったがな」
彼は、口の端を、わずかに上げて言った。「そのトライデントの重みが、その呼び名を、許さんらしい」
俺は、何も答えなかった。
遠くの砂浜から、今の俺たちと同じように、地獄の訓練に喘ぐ、候補生たちの声が聞こえてくる。あの日の、俺の声だ。
「……日本へ、帰ると聞いた」
「はい」
「何をしに帰る? テキサスの馬鹿(ブラッド)の墓前に、勝利の報告でもしに行くのか? それとも、故郷で、静かに余生を過ごすのか?」
その、あまりにも的確な問いに、俺は、初めて、自分の心の奥底を、この男にだけは、見せてもいいのかもしれない、と思った。
「……贖罪です」
俺の声は、自分でも驚くほど、静かだった。
「俺は、守るべきものを、守れませんでした。その、あまりにも大きな代償の上に、今の俺は、立っている。だから、帰るんです。二度と、俺のような化物を生み出さないために。この国に、巣食う、本当の敵と、戦うために」
俺の言葉に、マクブライドは、何も言わなかった。
ただ、その、深い皺が刻まれた顔で、じっと、俺の目を見つめている。
やがて、彼は、重々しく、口を開いた。
「……そうか。ならば、一つだけ、言っておくことがある」
彼は、俺の胸に輝く、トライデントを、指差した。
「そいつはな、カミヤ。ただの、強さの証じゃない。呪いだ。俺たちは、一度、その重みを背負ったが最後、二度と、ただの人間には戻れん。戦場を去っても、戦争は、終わらん。姿を変え、形を変え、貴様の魂を、死ぬまで蝕み続ける」
彼は、遠い目をして、続けた。
「その呪いと、どう向き合うか。英雄になるか、それとも、ただの人殺しで終わるか。……それを決めるのは、お前自身だ」
それは、俺を地獄へと叩き落とした悪魔からの、最後の、そして、唯一の、餞の言葉だった。
「……肝に、銘じます」
俺は、深く、頭を下げた。
彼が、その、分厚く、骨ばった手を、差し出してきた。
俺は、その手を、力強く、握り返した。アナポリスの卒業式で、ミラーやジャックと交わした握手とは、全く違う種類の、重い、重い、握手だった。
「行け」
彼は、それだけ言うと、再び、太平洋へと、その視線を戻した。
俺は、もう一度、敬礼すると、音もなく、その場を去った。砂浜から聞こえる、候補生たちの苦悶の声が、遠ざかっていく。俺の、九年間に及んだ、アメリカでの地獄巡りが、今、終わろうとしていた。
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