第四章「風が運ぶ災厄」
季節が夏から秋へと移り変わる頃、予知地図に記されている警告は、その深刻度を増していった。もはや、アキラ個人の機転で対処できるレベルを超え始めていた。
――中央5-7-22柱 地下鉄工事振動累積で基礎コンクリート微細クラック進行。二週間以内要補強。
――港北1-3-15柱 台風接近時海風共振により支線過負荷。倒壊危険度レベル4。
――新宿8-11-6柱 高層ビル建設による風況変化で架線に異常張力。切断リスク増大。
これらの警告は、単なる設備の小さな不調ではない。放置すれば、大規模な停電や重大事故につながりかねない深刻な問題だった。しかも、いずれも通常の定期点検では発見が困難な、隠れた危険ばかりだ。
アキラは、この事実を会社に報告すべき時が来たと判断した。個人的な好奇心で済ませられる段階は、とうに過ぎていた。
相手は、最も説得が困難であろう、蓮見課長だ。
アキラは数日かけて、地図の予言と、実際に起きた出来事を照合したレポートを作成した。カラスの営巣事故から始まり、支線の緩み、変圧器の絶縁油劣化、通信ケーブルの負荷異常まで、時系列で整理した詳細なデータだ。
客観的なデータとして提示すれば、さすがの蓮見も無視はできないだろうと考えたのだ。統計学的に見ても、これほど多くの予測が偶然的中する確率は、ほぼゼロに等しい。
「課長、今、少しよろしいでしょうか」
アキラが声をかけると、蓮見はモニターから視線を外し、訝しげな表情を向けた。彼女の机上には、三台のモニターが並んでいる。リアルタイムの電力供給状況、AI分析による故障予測、そして各種システムからのアラート情報。現代的な情報管理の最前線がそこにあった。
「何かしら、相田さん。あなたが私に直接話しかけてくるなんて珍しいわね」
アキラは、作成したレポートと、問題の地図のコピーを彼女のデスクに置いた。
「地下資料室で見つけた、古い地図についての報告です。この地図には、未来に起こる設備トラブルや事故が、極めて高い精度で記されています」
蓮見は眉一つ動かさず、レポートに目を通し始めた。その表情は、まるで出来の悪い学生のレポートを採点する教授のように冷ややかだった。彼女の目は、効率と論理に慣れ親しんでいる。感情的な判断や、科学的根拠のない主張には、一切の共感を示さない。
数分間の沈黙の後、彼女は大きなため息をついた。
「……相田さん、疲れているの?」
「いえ、自分はいたって真剣です。ここに書かれていることは、全て事実です」
「事実? これはただの偶然か、後付けのこじつけでしょう。カラスの営巣なんて、この時期いくらでもあるわ。電圧降下も、古い設備なら日常茶飯事よ。あなたは、結果が分かっているから、この古い地図の記述が予言に見えるだけ」
蓮見の反論は、合理的で、正論だった。科学的思考に基づけば、当然の判断だ。アキラが匿名で事故を防いだ一件も、証拠がなければ何の意味も持たない。
「ですが、この精度は異常です。統計的に見ても、偶然では説明できません。何らかの未知の予測技術が使われている可能性があります。作成者の『H.S』……早乙女肇という人物について、調査すべきです」
「早乙女肇……」
その名を聞いた蓮見の表情が、初めて険しくなった。
彼女の目に、一瞬、古い傷を思い出すような影が差した。
蓮見恭子にとって、早乙女肇は決して忘れることのできない名前だった。彼女が新人だった一九八八年、まだ早乙女が在籍していた頃、彼女は一度だけ、早乙女と一緒に仕事をしたことがあったのだ。
当時、蓮見は配電部の技術企画課に所属していた。東京都心部で原因不明の停電が頻発し、その調査チームの一員として参加していた。データ分析担当の新人として、コンピューターによる統計解析を任されていた。
一方、早乙女は現場調査担当として、実際に問題の配電線を巡回していた。データ分析チームが数週間かけても原因を特定できずにいた時、早乙女が「あそこの変電所の制御システムに問題がある」と断言した。
しかし、制御システムの診断データには何の異常も表示されていなかった。蓮見は、科学的根拠のない早乙女の主張を「非論理的」として反対した。
「データに基づかない判断は、技術者として失格です」
若き日の蓮見は、早乙女にそう言い放った。
しかし、早乙女の予測は的中した。制御システムの基板に、目視では確認できない微細な劣化が発生しており、それが間欠的な制御不良を引き起こしていたのだ。
その一件以来、蓮見は早乙女の能力を認めざるを得なくなった。しかし同時に、データよりも「勘」を重視する早乙女の姿勢に、強い不安を感じていた。もし早乙女の判断が間違っていたら? 根拠のない決断で大事故が起きたら?
そして、実際にその日がやってきた。
一九八九年夏の大停電。蓮見がチームリーダーとして指揮を執った、彼女の人生最大の失敗だった。
「聞いたことがあるわ。過去の亡霊よ。非科学的な勘に頼って、会社を混乱させたっていう。彼の資料は、私が課長になった時に全て廃棄させたはずだけど」
蓮見の声には、抑えきれない感情が込められていた。それは、早乙女個人に対する嫌悪ではなく、自分自身の過去に対する嫌悪だった。
「廃棄……!?」
「ええ。私たちの仕事は、データとエビデンスに基づいて行われるべきだわ。個人の勘や、オカルトめいた地図に振り回されている暇はないの」
蓮見の脳裏に、あの日の記憶が蘇ってきた。一九八九年八月十五日、午後三時二十二分。東京都心部を襲った記録的な大停電。影響範囲は二十三区の約四割、停電戸数は百万世帯を超えた。
原因は、老朽化した地中ケーブルの絶縁破壊だった。地下に埋設されてから二十年以上経過したケーブルが、猛暑による地温上昇と、地下水位の変化によって劣化していたのだ。
事前にその危険性を指摘していたのは、早乙女だった。「あのケーブルは悲鳴を上げている」と彼は警告していた。しかし、ケーブルの絶縁抵抗測定値は正常範囲内だった。データ上は何の問題もなかった。
蓮見は、対策チームのリーダーとして、データに基づく判断を下した。「測定値が正常である以上、交換の必要はない」――その決断が、結果的に大停電を招いたのだ。
もし、あの時早乙女の警告に従ってケーブルを交換していたら……。蓮見は、その後悔をずっと抱え続けてきた。だからこそ、彼女は「勘」や「直感」といった曖昧なものを徹底的に排除し、データのみに基づく意思決定を貫いてきたのだ。
「うちの部署が目指しているのは、AIによるリアルタイムの故障予測システム。そんなアナログな遺物に、どんな価値があるというの?」
蓮見は、地図のコピーをゴミ箱に放り投げた。その仕草が、アキラには早乙女の魂ごと踏みにじる行為のように見えた。
しかし、蓮見の心の奥では、別の感情が渦巻いていた。もし、今度もまた自分の判断が間違っていたら? 三十年前と同じ過ちを繰り返すことになるのではないか?
その不安こそが、彼女を頑なにさせていた。データに基づかない判断で失敗した苦い記憶が、早乙女の遺産を受け入れることを拒ませていたのだ。
「相田さん、あなたの仕事は、過去の資料をデジタル化すること。それ以上でも、それ以下でもないわ。余計な詮索はしないで。いいわね?」
それは、議論の余地のない、最終通告だった。
アキラは、唇を噛み締めて、課長室を後にした。巨大な組織という壁の前に、自分の言葉がいかに無力であるかを思い知らされた。蓮見にとって、アキラはただの駒であり、地図は処理すべきノイズでしかない。
それでも、アキラには理解できた。蓮見もまた、組織の重圧と戦っている一人の技術者なのだ。大停電という過去の傷を抱え、二度と同じ失敗を繰り返すまいと必死に務めている。その気持ちは、痛いほど分かる。
しかし、だからといって、目の前にある危険の兆候から目を背けていい理由にはならない。
その日の帰り道、アキラはいつもよりゆっくりと歩いていた。街には、相変わらず無数の電柱が立っている。だが、今の自分には、それらがひどく頼りなく、孤独に見えた。組織から見捨てられた、声なき存在。それは、今の自分と同じだった。
電柱たちは、人々の無関心の中で、黙々と街を支え続けている。誰に感謝されることもなく、誰に理解されることもなく。ただ、自分の役割を果たすためだけに、そこに立ち続けている。
(自分は、どうすればいいんだ……)
ポケットの中の予知地図のメモが、重くアキラの心にのしかかる。このまま真実を黙殺すれば、いつか取り返しのつかない事態が起こるかもしれない。だが、組織を動かせなければ、自分一人にできることなど、たかが知れている。
アキラの孤立は、日を追うごとに深まっていった。蓮見の指示があったのか、同僚たちはアキラを遠巻きにするようになった。昼休みの雑談からも、自然と外されるようになった。まるで、疫病でも患っているかのような扱いだった。
組織における「異端者」の扱いは、いつの時代も同じだ。明確な排除命令が出されるわけではない。しかし、微妙な距離感、曖昧な疎外感によって、徐々に追い詰められていく。それは、物理的な暴力よりも、時として残酷な結果をもたらす。
資料室の主である古賀だけが、心配そうな顔でアキラに声をかけてくれた。
「課長に、地図の話をしちまったのか」
「……はい」
「だろうと思ったよ。あの人は、過去に大規模停電の対応で大きな失敗をしたことがあるんだ。それ以来、データで証明できないものを、極端に嫌うようになった。あんたの言うことが、たとえ正しくても、聞く耳は持たんよ」
古賀の話は、蓮見の頑なな態度の裏にある、彼女自身の痛みを示唆していた。彼女もまた、この巨大なインフラを守るという重圧と戦っているのだ。
「一九八九年の大停電か……わしも覚えてるよ。蓮見さんは、まだ若い係長だった。データ分析のエキスパートとして期待されていたんだが……」
古賀は、当時の状況を詳しく説明してくれた。
あの夏は、記録的な猛暑だった。連日の酷暑で、冷房需要が急増し、電力系統は限界近くまで負荷がかかっていた。そんな中、都心部の地中ケーブルに異常な発熱が観測された。
早乙女は、現場を巡回した結果、「ケーブルが危険な状態にある」と警告した。地中温度の上昇、地下水位の変化、周辺建設工事による地盤の微振動――それらの複合的な影響で、ケーブルの絶縁体が急速に劣化しているというのが彼の見立てだった。
しかし、電気的な測定では、絶縁抵抗値は正常範囲内だった。
対策会議で、早乙女は即座のケーブル交換を主張した。しかし、一本のケーブル交換には数千万円のコストがかかる。しかも、交換作業中は広範囲の停電が避けられない。データに基づかない判断で、そのような大規模な作業を実施することはできなかった。
蓮見は、統計分析の結果を基に、「現在の状況では交換の必要性はない」と結論した。過去のデータベースを分析しても、同様の条件でケーブル故障が発生した事例はなかった。科学的には、正しい判断だった。
しかし、運命の日、そのケーブルは破断した。
午後三時二十二分、猛暑で軟化した絶縁体に、地下水の浸入によって生じた微細な電流が流れ、絶縁破壊が発生した。瞬時に、連鎖的な故障が広がり、都心部の電力供給が麻痺した。
病院の手術室、地下鉄の運行、信号機の制御??すべてが停止した。エレベーターに閉じ込められた人々、熱中症で倒れる高齢者、混乱に乗じた犯罪の発生。一時的な停電が、都市機能の完全な麻痺を引き起こした。
復旧までに十二時間を要した。経済損失は数百億円に上り、間接的な被害を含めれば、その数倍に達した。そして、この事故で三名の死者が出た。
「蓮見さんは、その責任を一身に背負った。技術的には正しい判断だったんだが、結果的に大惨事を招いてしまった。それ以来、あの人は変わったよ。データに対してさらに絶対的な信頼を置くようになった。それは病的なほどにね」
古賀の説明で、アキラは蓮見の心の傷の深さを理解した。彼女は、早乙女の「勘」を信じなかったことを後悔している。しかし、同時に、データを信じて失敗したことも後悔している。その二重の後悔が、彼女を頑なにさせているのだ。
「でも、だからといって……」
「そう、だからといって、今度も間違いを犯していいわけじゃない。でも、組織ってのは、そういうもんなんだよ。一度失敗すると、二度と同じリスクを取ろうとしなくなる」
組織の保守性。
それは、安定性を保つための防御機制でもあるが、同時に革新を阻む要因でもある。蓮見は、組織の論理に従って行動している。個人的な感情よりも、組織の安全を優先している。
「相田君、君は若いから分からんかもしれないが、組織を変えるのは、一朝一夕にはいかない。でも、諦める必要はない。時間をかけて、少しずつ理解者を増やしていけば……」
古賀の励ましに、アキラは複雑な気持ちで頷いた。しかし、時間的な余裕があるのだろうか? 地図の予言は、日々深刻さを増している。
そんな絶望的な状況の中で、運命の日は刻一刻と近づいていた。
ある朝、アキラが出社して、いつものように地下資料室の地図を開いたとき、その異変に気づいた。地図の中央、首都の心臓部とも言えるエリアに、昨日まではなかったはずの、震えるような赤インクの線で、最大級の災厄が記されていたのだ。
まるで、今まさに書き込まれたかのように、インクは生々しい光を放っていた。それは、これまでの小さな警告とは次元の異なる、終末的な予言だった。
――中央変電所直結 大山幹線1号柱 老朽化および特定条件下でのビル風共振により座屈・倒壊。
記された日付は1週間後のもの。アキラは、その文字列から目が離せなくなった。全身の血が凍りつくような感覚。
大山幹線1号柱。それは、都心部に電力を供給する、最も重要な基幹送電線を支える、巨大な鋼管柱だ。高さ五十八メートル、直径二・五メートルの巨大な構造物。通常の電柱とはわけが違う。
この鋼管柱は、昭和四十七年に建設された。設計寿命は八十年とされているが、実際には様々な要因で劣化が進んでいる可能性がある。塩害、酸性雨、地盤沈下、振動疲労――これらの複合的な影響で、金属疲労が蓄積されているかもしれない。
それが一本倒れれば、将棋倒しのように周囲の送電線もろともなぎ倒し、首都圏全域をブラックアウトさせる「
連鎖倒壊、俗に「ドミノ倒し」と呼ばれる現象は、電力業界で最も恐れられている事故の一つだ。一本の送電鉄塔や電柱が倒壊すると、そこに接続されている送電線の張力バランスが崩れ、隣接する鉄塔に過大な力がかかる。それが連鎖的に伝播し、数十本、時には数百本の鉄塔が次々と倒壊していく。
過去にも、海外で何度かこの現象が発生している。一九九八年のカナダ・ケベック州氷嵐災害では、氷の重みで送電線が切断され、連鎖的に電力システムが崩壊した。二〇〇三年のアメリカ東部大停電では、一本の送電線のトラブルが広域停電を引き起こした。
しかし、東京のような人口密集地域で連鎖倒壊が発生すれば、その被害は想像を絶する。病院、交通機関、通信網、上下水道――都市のライフラインすべてが麻痺する。
予言された日付は、わずか一週間後。
「ビル風共振」という記述も気になった。近年、都心部では高層ビルの建設ラッシュが続いている。それらのビル群が作り出す複雑な風の流れが、送電鉄塔に予想外の力を加えている可能性がある。
風工学の分野では、「ビル風」は重要な研究テーマだ。高層ビルの周辺では、風速が二倍以上に増幅されることがある。また、ビル群の配置によっては、風の流れが共振現象を起こし、特定の周波数で構造物を激しく揺らすことがある。
大山幹線1号柱の場合、周辺に新しく建設された超高層ビルが、従来の風況を大きく変化させている可能性がある。設計当時には想定されていなかった風荷重が、経年劣化した鋼管柱にかかっているのかもしれない。
もう、迷っている時間はない。アキラは、地図を固く握りしめ、再び蓮見の元へ向かう決意を固めた。たとえ、狂人扱いされようとも、この警告だけは、絶対に伝えなければならない。
しかし、同時にアキラは理解していた。蓮見が、この警告を信じる可能性は極めて低い。彼女の心の傷を考えれば、データに基づかない警告を受け入れることは、不可能に近い。
それでも、伝えなければならない。結果がどうであれ、自分の責任として、この危険を警告する義務がある。
都市の日常が、今、静かに終わりを告げようとしていた。そして、その終わりを防げるのは、自分だけなのかもしれない。
アキラは、深呼吸をして、課長室のドアをノックした。人生で最も重要な戦いが、今始まろうとしていた。
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