第三章「忘れられた天才の影」
地図の作成者「H.S」の正体を探るため、アキラはまず、部屋の隅でいつも静かに過去の資料を整理している古賀誠司に近づいてみることにした。この資料室の生き字引のような彼なら、何か知っているかもしれない。
「古賀さん、ちょっといいですか?」
アキラが声をかけると、古賀は分厚い眼鏡の奥から、柔和な目を向けた。六十三歳という年齢を感じさせない
「おお、相田くんか。珍しいね、君から話しかけてくるなんて。で、どうしたんだい?」
「H.Sという署名のある、古い地図をご存知ないかと思って……」
そのイニシャルを聞いた瞬間、古賀の表情がかすかに曇ったのをアキラは見逃さなかった。まるで、封印していた記憶の扉が、軋みながら開かれたかのような表情。彼は一度、周囲に視線を走らせ、声を潜めて言った。
「……早乙女さんの地図か……」
「早乙女さん?」
「
古賀は、懐かしむように、そして少しだけ寂しそうに目を細めた。彼が立ち上がり、給湯室でコーヒーを淹れながら語る早乙女肇の人物像は、常識を遥かに超えた天才の姿だった。
早乙女肇、一九五二年生まれ。
東京大学工学部電気工学科を首席で卒業後、同大学院で電力システム工学の博士号を取得。
一九七八年、二十六歳でTMEPCOに入社した。
「あの人はね、入社初日から変わってた。普通の新人は、配属された部署の仕事を覚えるのに精一杯なのに、早乙女さんは初日から会社の全部の図面を見せろって言うんだ」
古賀の回想によれば、早乙女は新人研修もそこそこに、TMEPCOが管理するすべての配電設備の図面を要求した。当時は、現在のようなデジタルデータベースは存在せず、すべての情報は紙の図面や台帳に記録されていた。その膨大な資料を、彼は約三ヶ月で完全に記憶してしまったという。
「本当に三ヶ月で? それは……」
「信じられないだろう? でも本当なんだ。試しに、適当な電柱の番号を言うと、その場所、設置年月日、材質、製造番号、過去の補修履歴まで、すべて暗記していた。まるで人間コンピューターだった」
しかし、早乙女の能力は単なる記憶力だけではなかった。彼には、設備の「声」が聞こえるという、常人には理解しがたい能力があったのだ。
「あの人は、よく言ってたよ。電柱の声が聞こえるってな」
「声、ですか?」
「そう。変圧器の唸り音を聞いただけで、その寿命がぴたりと分かった。電線を指で弾いただけで、次の台風で切れるかどうかが分かったそうだ。まるで、電力網全体が、あの人の神経の一部みたいだった」
古賀が語る早乙女の逸話は、にわかには信じがたいものばかりだった。
ある時、ベテランの保守班でも原因が特定できない謎の電圧降下が発生した。データ上は異常なしだが、実際に測定すると、特定の時間帯に微妙な電圧の低下が観測される。調査チームが数週間かけても原因を突き止められずにいた時、早乙女が現場に足を運んだ。
彼は、問題の配電線の下に立つと、じっと空を見上げた。そして、数分後にこう言ったという。
「ああ、分かった。七百メートル先の角柱で、腕金の微妙な共振が起きている。風向きと風速が特定の条件を満たした時だけ、機械的振動が電気的ノイズに変換されるんだ」
調査班が、早乙女の指摘した場所を調べると、確かに腕金の取り付けボルトが僅かに緩んでいた。それが風によって微細な振動を起こし、接触抵抗の変化を通じて電圧降下を引き起こしていたのだ。
「どうしてそれが分かったんです?」と尋ねる調査班に、早乙女はこう答えたという。
「電線が歌っていたからさ。いつもと違う周波数で」
通常、電線は風によって「風切り音」を立てる。これは「エオリアン音」と呼ばれる現象で、風が円筒状の物体(この場合は電線)を横切る際に発生する音だ。この音の周波数は、電線の直径、張力、風速によって決まる。
早乙女は、この微細な音の変化から、電線の張力状態、ひいては支持する電柱や腕金の状況まで推測できたのだ。それは、バイオリニストが楽器の微妙な音色の変化から、弦の状態を把握するのと似ている。
「でも、そんな能力、本当に実在するんでしょうか?」
「わしも最初は半信半疑だった。でも、早乙女さんの予測は、いつも的中した。台風が来る前に『あの電柱は倒れる』と言えば本当に倒れるし、『この変圧器は来月故障する』と言えば、本当に故障した」
古賀は、しかし、早乙女の異常な能力には別の側面もあったと続けた。彼は、徐々に人間社会から乖離していったのだ。
「早乙女さんにとって、電力網は生きている存在だった。一本一本の電柱に人格があり、変圧器にも感情があると本気で信じていた。同僚との会話よりも、設備との『対話』の方を好むようになっていった」
彼は、休憩時間になると一人で電柱巡回に出かけ、電柱に話しかけているのを目撃されることがあった。「調子はどうだい?」「痛いところはないかい?」――まるで、患者を診る医師のように、設備の状態を気遣っていた。
また、早乙女は設備に対して異常なまでの愛着を示した。老朽化した電柱の交換作業では、「まだ使える」と言って激しく抵抗した。時には、交換予定の電柱に一晩中張り付いて、作業を妨害することもあったという。
「あの人にとって、電柱の交換は、友人の死と同じだったんだろうな。それが理解できない周囲の人間を、次第に敵視するようになっていった」
早乙女の孤立は深まっていった。彼の異常な能力は認められていたが、その人間性は次第に疎まれるようになった。特に、一九八〇年代に入ってコンピューターによる設備管理システムが導入されると、彼の立場は微妙になっていった。
「管理職は、早乙女さんの『勘』よりも、コンピューターのデータを信じるようになった。当然だろう。勘に頼った経営なんて、できるわけがない」
しかし、早乙女はコンピューターシステムを激しく批判した。「機械には、設備の『心』が分からない」「データは嘘をつく。本当のことを教えてくれるのは、設備そのものだけだ」――そんな主張を、会議の場で声高に叫ぶこともあったという。
彼の最後の大きな仕事が、あの手書きの地図の作成だった。一九八七年から始まったという「都市神経系理論実証実験」は、早乙女の集大成とも言える研究だった。
「あの地図は、早乙女さんの理論の証明だった。電力網を単なるエネルギー供給システムではなく、都市の『神経系』として捉える。電柱一本一本が神経細胞のように機能し、都市全体の状態を感知し、情報を伝達する――そんな壮大な仮説だった」
古賀の説明によれば、早乙女は電力線を流れる微細な電流変化、電磁波ノイズ、機械的振動などから、都市の様々な情報を読み取ろうとしていた。それは、現代のIoTやスマートシティ構想を、三十年以上も先取りした革新的なアイデアだった。
「でも、そんな技術、当時可能だったんですか?」
「技術的には不可能だった。少なくとも、一般的な技術では。でも、早乙女さんは『技術』ではなく、『感覚』でそれを実現しようとしていた。人間の直感と、設備との共感能力を最大限に活用して」
つまり、あの地図は、早乙女の異常な感覚能力によって作成された、一種の「超能力的予測システム」だったのだ。科学的な測定機器に頼らず、人間の五感を極限まで研ぎ澄ませることで、都市の未来を読み取ろうとした試みだった。
「でも、その人は今……」
「……さあな。もう三十年以上前になるか。ある日、ぷっつりと会社に来なくなった。神隠しにでもあったみたいに、忽然と姿を消したんだ」
古賀の顔に、深い悲しみが浮かんだ。
「最後に会ったのは、一九九〇年の夏だった。その頃、早乙女さんは完全に孤立していた。同僚からは変人扱いされ、管理職からは煙たがられ、新しく導入されたコンピューターシステムに自分の居場所を奪われた」
そんな状況の中で、早乙女は古賀にこんなことを言ったという。
「古賀さん、僕はもう疲れました。この会社には、設備を愛する人間はいない。すべてをデータで割り切って、効率と利益しか考えない。でも、いつか分かる日が来る。人間が設備を理解するのではなく、設備の方から人間に語りかけてくる日が」
それが、早乙女との最後の会話だった。
「翌週から、早乙女さんは出社しなくなった。人事部が自宅を訪ねても、もぬけの殻だった。まるで、最初からそんな人間は存在しなかったかのように、綺麗に消えていた」
会社は、早乙女の存在そのものを無かったことにしたいみたいだった。あまりに常識から外れすぎていたから。彼の研究資料は廃棄処分とされ、名前も社史から削除された。
「でも、わしは信じていた。早乙女さんは、どこかで研究を続けていると。そして、あの地図が本物なら……」
古賀は、アキラを見つめた。その目には、長年封印していた秘密を、ついに打ち明けることができた安堵感が浮かんでいる。
「君が見つけた地図が、本当に未来を予知しているなら、早乙女さんは今でも、どこかで都市を見守っているのかもしれない」
古賀の話は、謎を解き明かすどころか、さらに深めるものだった。早乙女肇は、なぜ姿を消したのか。そして、なぜ未来を予知する地図を残したのか。
アキラは、早乙女という人物に強く惹かれていた。周囲から変人扱いされながらも、自分の信じる道を突き進んだ孤高の天才。それは、性別の枠に収まらず、どこか社会とのズレを感じながら生きている自分と、少しだけ重なるように思えた。
「古賀さん、早乙女さんの研究資料は、本当にすべて廃棄されたんでしょうか?」
「表向きはそうなってる。でも……」
古賀は、周囲を見回してから、小声で続けた。
「この資料室の奥に、早乙女さんが使っていた古いロッカーがある。蓮見課長は知らないが、わしがこっそり保管している物がある。もしかしたら、君の役に立つかもしれない」
それは、アキラが既に発見していたロッカーのことだった。だが、まだ中身をすべて確認してはいない。
「今度、一緒に見てみるか? わしも、あの人の最後の研究がどこまで進んでいたのか、知りたいんだ」
古賀の提案に、アキラは深く頷いた。
予知地図の検証を続けるうちに、アキラは新たな事実に気づき始めた。地図の予言は、電柱そのもののトラブルだけに留まらなくなってきたのだ。
先日確認した通信ケーブルの負荷予測や、路面凍結事故の警告以外にも、より複雑で広範囲な予言が記されている。
――湾岸7-12-15柱周辺 大型船舶接岸に伴う地盤微動で基礎部応力集中。長期的劣化要因。
――山手3-8-21柱付近 地下鉄工事による地下水流変化。五年後の地盤沈下を予測。
――環七9-5-3柱界隈 商業施設建設で電力需要急増。変圧器容量不足。対策必要。
これらの予言は、単一の電柱の状態だけでなく、都市のマクロな変化を予測している。港湾の物流量、地下鉄の建設計画、商業開発の動向――これらの情報は、通常、電力会社の一技術者がアクセスできるものではない。
しかし、早乙女の「都市神経系理論」を考えれば、理解できなくもない。電力網は、都市のあらゆる活動と連結している。工場の稼働状況は電力消費量に現れ、商業施設の来客数は照明や空調の負荷に反映される。住宅地の人口増減は、家庭用電力の需要変化となって観測される。
つまり、電力消費パターンを詳細に分析すれば、都市の経済活動、人口動態、インフラ整備計画まで推測することが可能なのだ。現代のビッグデータ分析やAI技術は、まさにこの方向性で発展している。
しかし、一九八〇年代にそのような分析を行うためには、天才的な洞察力と、膨大な情報を統合する人間的能力が必要だった。早乙女は、現代のAIが行っている処理を、自分の脳で実行していたのかもしれない。そんな人間が存在すれば、の話だが。
アキラは、地図を眺めながら、早乙女の孤独な戦いに思いを馳せた。彼は、都市を一つの生命体として理解しようとしていた。そして、その生命体の「病気」を早期発見し、治療しようとしていた。
しかし、その志は理解されなかった。効率と利益を追求する企業組織にとって、早乙女の哲学的なアプローチは受け入れがたいものだった。
ある雨の日の午後、アキラは傘をさして街を歩いていた。ふと見上げた電柱の変圧器が、ぶぅぅん、と低い唸り声を上げている。以前なら気にも留めなかったその音が、今はまるで生き物の呻き声のように聞こえた。
変圧器の内部では、絶縁油が劣化し、悲鳴を上げているのかもしれない。電磁コイルが微細な振動を起こし、それが筐体を通じて音波として伝わってくる。その音の微妙な変化から、内部の状態を推測することは、理論的には可能だ。
早乙女は、この音を「設備の声」として聞いていたのだろう。人間には聞こえない周波数まで含めて、設備の状態を音響的に診断していたのかもしれない。
そのすぐそばのマンションでは、子供の笑い声がする。人々は、自分たちの生活が、この声なきインフラの献身によって支えられていることなど、知りもしない。
日常とは、なんと危うい均衡の上にあるのだろう。
そして自分は、その均衡が崩れる瞬間を、事前に知ることができる。
アキラは、ポケットの中で、地図の予言を書き写したメモ帳を強く握りしめた。自分は、この力とどう向き合えばいいのだろうか。答えの見えない問いが、雨音と共にアキラの心に染み込んでいった。
古賀がアキラのデスクにそっと一枚の古い写真を置いた。色褪せたモノクロの写真には、数人の作業員に混じって、電柱に登る一人の男が写っている。痩身で、眼鏡をかけ、どこか神経質そうな表情をしていた。
「早乙女さんだ。昔の社内報から見つけてきた」
写真の中の早乙女は、まるで電柱と対話しているかのように、その表面にそっと手を触れていた。彼の周りだけ、時間の流れが違うように見える。他の作業員たちが機械的に作業をこなしているのに対し、早乙女だけは電柱と心を通わせているような、そんな印象を受けた。
「あの人は、効率とか、生産性とか、そういう言葉が嫌いだった。一本の電柱にも歴史と尊厳がある、ってな。だから、全部手書きの地図にこだわったんだ。デジタルデータじゃ、電柱の『手触り』が消えちまう、と」
手触り、という言葉がアキラの心に響いた。自分も同じだ。スキャンされた無機質なデータよりも、インクの滲みや線の揺らぎがある古い図面にこそ、本当の情報が宿っているように感じる。
デジタルデータは、確かに検索性や保存性に優れている。しかし、その過程で失われるものもある。紙の質感、インクの匂い、描線の強弱――これらの「アナログ情報」にも、重要な意味があるのかもしれない。
「蓮見課長は、早乙女さんのやり方を全否定している。古いものは全て捨てて、AIとセンサーで管理するスマートグリッドこそが正義だと信じているからな。まあ、時代の流れだから仕方ないが……」
古賀は寂しそうに笑った。
アキラは、蓮見課長の姿を思い浮かべた。彼女は常に最新のタブレットを手に、膨大なデータを処理している。彼女の目には、一本一本の電柱の個性など映ってはおらず、全てが管理対象の「オブジェクト」として見えているのかもしれない。
それは、必ずしも悪いことではない。現代の巨大で複雑な電力システムを効率的に管理するためには、デジタル技術の活用は不可欠だ。個人の感覚や経験に頼った管理では、限界がある。
しかし、だからといって、早乙女のようなアプローチに全く価値がないとは言えない。AI やセンサーが検出できない微細な異常、データには現れない「気配」のようなもの――それらを感知する人間の能力は、今でも貴重なのかもしれない。
早乙女が残したアナログな遺産と、蓮見が推進するデジタルな未来。自分は、その狭間に立っている。
アキラは、写真の中の早乙女に静かに語りかけた。
(あなたは、何を見ていたんですか? この地図で、何を伝えたかったんですか?)
もちろん、答えは返ってこない。だがアキラには、写真の中の早乙女が、時を超えて自分に何かを託そうとしているような、そんな気がしてならなかった。
忘れられた天才の影は、静かに、しかし確実にアキラを未来へと導こうとしていた。そして、その未来には、おそらく大きな試練が待ち受けているのだろう。
アキラは、早乙女の写真を大切に胸ポケットにしまった。これから始まる困難な道のりを、一人で歩むわけではない。三十年の時を超えて、早乙女の魂が自分と共にあることを、アキラは確信していた。
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