都市伝説「サヨナラさん」

犬神堂

1:噂なんですけど

 新宿駅から徒歩圏内の高層マンション。遠間柊斗とおま しゅうとは、転勤を機にその一室へ引っ越してきた。彼は広告代理店の営業職として忙しい日々を送っている。職場から近く、家賃も相場より安いこの部屋は理想的だった。築浅ちくあさで設備も整っているのに、妙に空室が多いことだけが気になったが、仕事の疲れもあり、深く考える余裕はなかった。

 引っ越し初日の夜。段ボールの山を前に缶ビールを開け、窓の外に目をやる。新宿の夜景が広がっていた。ネオンが瞬き、遠くのビル群が静かにそびえている。「悪くないな」と呟いたそのとき、隣室のチャイムが鳴いた。ドアを開けると、若い女性が立っていた。


「こんばんは。隣の部屋に住んでる葛西陽琉かさい はるです。引っ越してきたばかりですよね?」

「ええ、遠間です。よろしくお願いします」

 陽琉は柔らかく微笑んだが、どこか影のある表情だった。


「……あの、いきなりだし、唐突に変なこと言うようですけど。夜中の3時以降に、窓は開けない方がいいですよ」

「え?」

「ここのビルの屋上に、“サヨナラさん”が立ってることがあるんです。見た人は、みんな……いなくなるって」

 柊斗は苦笑した。

「それって、都市伝説ですか?」

「ええ。でも、本当なんです。私の友達も見たって言ってからいなくなったんです」


 それ以上何も言わず、陽琉は静かに去っていった。柊斗は彼女の言葉が頭から離れなかった。都市伝説。当然そんなもの、信じるわけがない。だが、気になってスマホで検索してしまう。


「サヨナラさん 窓 新宿 3時」


──いくつかの掲示板がヒットした。ある投稿にはこう書かれていた。“午前3時ちょうどに窓を開けると、向かいの建物の屋上に“サヨナラさん”が立っている。白い服、長い髪。目が合うと、数日以内に“サヨナラさん”にどこかへ連れていかれる…。


 眉をひそめながらも、柊斗は時計を見た。2時58分。窓の外には静かな夜景が広がっている。遠くのビルの窓は、ほとんどが暗い。そもそも新宿のどこかも書いてないし、連れていかれたんなら、なんでこの書き込みがあるのかわからない。この手の話はどこにでもある。


 3時。


 本当に何の気なしに、柊斗は、ゆっくりと窓を開けた。冷たい夜風が頬を撫でる。

 向かいのビルの屋上には、誰もいない。いるはずもない。やはり、ただの噂だ。

 そう思った瞬間、白い影を見つけた。白い服、長い髪。顔は見えない。だが、確かにこちらを見ている。柊斗は息を呑んだ。目が合った……ような気がした。その瞬間、それが微かに笑った。…ようにも見えた。

 柊斗は慌てて窓を閉めた。心臓が早鐘のように打つ。

「……なんだ、今の……」

 部屋の中は静まり返っている。だが、“サヨナラさん”の姿は、脳裏に焼き付いて離れなかった。

(続く)

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