第2話 無人の館

 転びそうになり、慌てて体制を立て直す。屋敷全体の様相が、薄明りの中ヴェルナールの前に浮かび上がった。


「うわあ……こりゃあ……」


 ヴェルナールは感嘆の声をあげた。広いエントランスは赤い毛長の絨毯が敷かれている。埃は積もっているが、立派なものだ。

 天井にかかる宝石を集めたような丸いシャンデリアから、とぼしい光が降って来る。よく見ると蜘蛛の巣が貼っていた。

 ヴェルナールは気後れして、ホールの中央を通り、絨毯のない部屋の隅に移動した。

 シャンデリアの光を反射するホールの床は汚れ、ヴェルナールの姿をぼんやり映していた。

 その先には、左右対称の大きな階段が伸びている。階段の手すりはスピンドルワークを施した黒檀で作られ、曲線を描くデザインが優美さを見せて、まるで手を広げているようだった。

 階段の踊り場には、金で縁取りされた巨大な鏡が据えられている。鏡は曇っており、何もうつしていない。その下に猫脚まで渦巻き装飾のされた横長のソファが鎮座していた。


 ヴェルナールは息を大きく吸って、声を張り上げる。


「誰かいませんか!」


 彼の声がエントランスホールに木霊して反響する。声は遠く、小さくなっていった。

 やはり誰も出てこない。

 ヴェルナールは困り果てて、立ち尽くしていた。本当に誰もいないのだろうか。

 一歩踏み出して、ヴェルナールは歩き出した。屋敷の中を探してみよう。どこかで……例えば、礼拝中だったり、みんなで集まって食事中だったりするのかも知れないからだ。

 ヴェルナールはエントランスホールを出て、廊下を下った。

 廊下は天井が高く、壁には大きな風景画がかけられ、背の高い花瓶や調度品が並んでいる。

 ふと、食べ物のいい匂いがして、ヴェルナールは立ち止まった。

 近くに食堂があるようだった。急いで匂いを辿る。お腹が空いて死にそうだった。

 廊下の突き当りに食堂があった。ヴェルナールの手が食堂の両開きの扉を押し開ける。食堂を見渡すが、やはりそこにも誰もいなかった。

 その代わり、テーブルの上には先回りしたように料理が並べられていた。

 丁寧に絵柄の描かれた銀のスプーンとフォーク、ナイフが行儀よく並び、

 エッグクリュエットには白い殻付きのゆで卵が入っていて、銀のスープ皿にはオレンジ色をしたスープがなみなみと注がれている。

 その向こうにはメインデッシュの蒸した魚と肉のパイが待ち構えていて、

 奥のカードトレイには黄金色のシュークリームと様々な色合いのマカロンが山のように乗せられ、まるで祭りの様だ。

 銀製の背の高いティーケトルと、花の飾られたブレットバスケットが華やかさに拍車をかけている。


「ええ……?」


 ヴェルナールは驚いて目を見張った。料理には、優しく華やいだ雰囲気が漂っている。


「誰が用意したんだ……」


 明らかにこの屋敷には誰かが存在しているのに、その姿はどこを探しても無いのだ。だが、誰かがいることは間違いない。

 姿が見えない以上は、どうしようもなかった。美味しそうな料理の数々を前にして、ヴェルナールのお腹が鳴った。

 恥じ入って、ヴェルナールはお腹に手を当てた。しかし、このまま何も口にしなければ飢えて死ぬだけだ。

 彼は勇気を出して、椅子を引くとそこに座り、フォークとナイフを手に取った。

 スープは味もちょうどよく、魚料理は、鯛にアニスの香りがふくよかで美味であった。肉料理のパイの中身は、鴨肉と鶏レバーのパテで、こちらも舌がとろける様だ。シュークリームはさっぱり甘く、カラフルなマカロンはヴェルナールの舌も目も楽しませてくれた。


(この家の人に見つかったら、事情を説明して謝ろう)


 ヴェルナールは料理を上品に食べ進めながら、心の中でひとりごちた。


「ごちそうさまでした!」


 ナプキンで口元を拭って、しばらく待つ。だかいつまでたっても誰も現れない。

 ヴェルナールはいよいよ困って、窓の外を見た。そこには裏庭に続く小道が映っている。

 食堂を出て、裏庭に向かう。


「おお……」


 そこは薔薇の園だった。

 いつの間にか、雨はやんでおり、空には晴れ間がのぞいている。

 小高い丘に日時計の彫像が置いてあって、そこに草の中から立ち上がった黄色い薔薇が絡みついている。桃色の小さな蔓薔薇の花が、木の幹に巻き付いて枝から垂れ下がっていた。

 堀を這って橙色の野茨の花が横に広がり、蕾の開いた赤い花をつけた木薔薇は、噴水のように咲き誇っている。


「前庭より凄えな……」


 夢見心地で、ヴェルナールは薔薇の園の中を歩き出した。雨粒が、まるで真珠のように薔薇たちを飾って光り輝かせている。大輪の薔薇たちは、零れんばかりに美しく咲き、どんな美しい絵画の花だって、この園よりも賑やかに、美しく咲いてはいまいと思わせるほどだった。

 ふと、瞳に白い薔薇の繁みが飛び込んで来て、彼は足を止めた。

 ヴェルナールは、出立前交わした一人娘ベルとの会話を思い出していた。


『娘っち、何か土産はいるか』

『何もいりません』

『そんなはずないだろう。嫁入り前だ。ドレスやら何やら、用意は向こうの家が全部するって言われてるけどさ、俺も何かしたいんだ』

『別に私は望んでません。彼は賢く優しい人で、彼の家族も同じです。あの家に嫁ぐことは決まっています。私はそれだけで幸せです。だから後は、お父様が無事に帰って来てくださるか、さもなくば商談に行かないと思い直すだけなのです』

『それじゃあ俺の気が済まねぇよ』

『お父様……』


 ベルは困ったような顔をして、言った。


『では結婚式のベールに飾る薔薇を、一本だけ持って帰ってくださいませ』


「ベル……!」


 ヴェルナールは思わず薔薇の一本に手を伸ばした。ここにはベルの望む薔薇があるのだ。もうすぐ嫁いでいくあの子が、無欲にも望んだものが薔薇だ。

 ヴェルナールはその指先で、白い薔薇を一本、手折る。

 次の瞬間、大きなけむくじゃらの手がその腕を掴んだ。


「うえっ!?」


 すぐ側で、怒号ともおぼしき低い咆哮が上がる。


「オオオオオォ―――!!」

「うあっ!」


 耳をつんざく咆哮にヴェルナールは思わず身を屈めて手を振り払おうとした。だが、きつく掴まれた腕はびくともしない。

 何だ。この鉤爪のついた、大きな手はなんだ。人ではない?では……ヴェルナールは、振り向いた。


「お前は!」


 そこにいたのは、恐ろしく大きな野獣だった。


「お前は!こんなに良くしてやったのに、よくも私の薔薇を手折ったな!」

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