第3話 野獣との出会い
「―――!?」
あまりのことに声も出ない。野獣は、ヴェルナールの腕をへし折らんばかりに力を込めて引き寄せた。
野獣の鼻先が、目前に迫る。尖った耳が二本。鼻は狼のように高く、口は耳まで裂けていた。黒く、脂ぎった、毛玉だらけの毛皮。それに覆われたのは、2メートルほどもあろうかと言う巨体だ。かろうじて紳士めいた服は着ていたが、それが中途半端に人に見えてかえって不気味だった。
「いててて!」
ヴェルナールの腕がぎりりと締め上げられ、足が浮く。彼は悲鳴をあげて身を捩った。
「す、すまない!すまない!娘のために薔薇がどうしても欲しかったんだ!」
「娘だと!?」
ギラギラした両目で、野獣がヴェルナールを睨む。彼の手がヴェルナールの腕をそっと離した。
どっとヴェルナールが地面に倒れる。
「いってぇぇぇ……」
腕を押さえて、ヴェルナールが涙目で呻いた。
その
「私の大切な薔薇を手折った罰だ。お前の娘をここへ連れて来い」
「えあっ!?」
ヴェルナールは目を白黒させて野獣の手首を掴むと、頬を挟まれたままもごもごと抗議した。
「できにぇえそーだんにゃ。むしゅめふぁ、よめいりぇがきまっれ……」
「……何を言ってるかわからん」
野獣が手を離す。ヴェルナールは、ゲホゲホと咳き込むと、息を整えてもう一度言った。
「できねえ!娘は嫁入りが決まってるんだ!」
「別れさせて連れて来い!」
「無茶言うな!」
ヴェルナールは叫んだ。野獣が唸り声をあげる。その鋭い牙で喉元を抉られるかも知れないという恐怖がせり上がってくる。だが、ヴェルナールは足をふんばって耐えた。娘のこととなれば、どうしても譲れない。野獣が吠えた。
「お前こそ無茶苦茶だ!もてなしたのに!私の大切な薔薇を折った!」
「あ……っ!」
ヴェルナールは、手に握っていた白い薔薇を見下ろした。そして、野獣と薔薇を交互に見詰めると、すまなさそうに言った。
「申し訳なかった……もてなしてくれて、ありがとう。感謝する。この薔薇……そんなに大切なものとは思わなかった。俺に出来る罪滅ぼしなら何でもやるから。娘は、娘だけは勘弁してくれ」
「では、お前が私のものになれ!」
「ええ!?」
ヴェルナールは仰け反って後ずさった。野獣が前のめりになって凄む。至近距離に、彼の顔があった。
(あ、目、蒼い。意外とつぶらだ)
野獣の瞳を見つめて、ヴェルナールはぼんやりそう思った。野獣が彼を逃がさまいと、その肩を掴み、唾を飛ばして怒鳴る。
「私のものとなって、この屋敷に留まり、私に生涯仕えて暮らせるか!」
「わ……」
ヴェルナールのまな裏にベルの姿が浮かんだ。
(ベル)
大好きな男と、もうすぐ結婚する幸福なベル。娘の幸せを、ヴェルナールは何よりも望んでいた。
野獣はそんな娘を差し出せという。
(絶対に嫌だ)
ならば、答えは一つだ。
ヴェルナールは、ふるえる声を絞り出して、答えた。
「……わかった」
「何!?」
「わかったってんだよ!娘の命の変わりに俺がここに残る!」
「……正気か!?」
野獣が驚きの声をあげる。ええー何言ってんだ自分から言い出したくせに。と渋い顔をして、ヴェルナールが野獣を睨む。
「何でもやるって言っただろ。喰うなり拷問するなり、好きにしろ」
「……私にそんな趣味はない」
野獣が、ヴェルナールの肩から手を離して、くるりと背を向けて歩き出した。
「来い、奴隷」
「ま、待てよ!ていうか!俺にはヴェルナールつう名前があんだ!おい、待ってくれ!」
ヴェルナールは、慌てて野獣の後を追って走り出した。
野獣が屋敷の中へ入って行く。追いついたヴェルナールは、その後を早足で追いながら野獣に言った。
「待てって!なあ、大将!殿下!親分ってば!アンタのことはどう呼べば……」
「……気安い奴だな……」
「ご主人様!」
「ベット」
「は?」
「私の名だ!何度も言わせるな!屋敷の者達からは、単に
「ええ……それは……他に何か無いのかよ呼び方……」
引き気味にヴェルナールが尋ねる。
ベットと言う単語の意味を思い出す。ベット―――けもの、けだもの、愚か、鈍重……
(言うにことかいて
ヴェルナールは、彼がちょっとかわいそうになってしまった。野獣……ベットは、ふんと鼻を鳴らした。話題を変えようと、ヴェルナールが追随しながら続ける。
「なあ、この摘んじゃった白い薔薇、花瓶に生けたいんだが……」
「お前……」
「ん?」
「ちょっとマイペースすぎるぞ……」
そう言って、ベットは廊下にあった水差しの横のグラスを取った。
それに水を注ぎ、ヴェルナールに差し出す。ヴェルナールはそのグラスを受け取ると握っていた白薔薇を生けた。
玄関ホールを通り過ぎ、客間の横を通り抜け、やがて二人は突き当りの部屋に辿り着いた。
ベットが部屋の扉を開ける。
「お前の部屋だ」
「ここが……?」
ヴェルナールは部屋を覗き込んで驚いた。奴隷と言われたものだから、牢獄にでも連れて行かれるのかと思ったら、違うようだ。
部屋は、こぢんまりとしているが気品のある雰囲気で、青々と茂った夏草のような壁に、黄色のベースボードが眩しい。家具は蔦の絡んだ意匠が施され、部屋全体が夏の森のようだ。
「侍従の使う部屋だ。これからずっとここで暮らすのだ、早々に死んでもらっては困るのでな」
ベットはそういうと、ヴェルナールの背中をぐいぐい押した。
「ちょ、な……」
ドンと背中を叩かれて、部屋に押し込められる。鍵がかちりとかかる音がして、扉があかなくなった。ヴェルナールが、血相を変えてグラス片手にドアノブを回す。
「おい!開けろ!開けて!」
「そこで大人しくしていろ」
「何も閉じ込めなくったって……!」
「逃亡されては困るのでな」
「するか!おい、開けてくれ!」
扉を叩くが、ベットは答えない。足音が遠ざかって、彼が去って行く気配がした。
完全に静寂が訪れて、ヴェルナールはへなへなとそこに座り込んだ。板間の床の冷たさが、ひんやりと伝わって、ヴェルナールは自分の衣服が濡れているのを思い出して、身震いした。
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