第16話 陽ヶ瀬家

 真仁に連れられて小夜は出かけた。

 町中、ラジオの話題で持ちきりになっていたが、真仁が通りがかると誰もが話すのをやめてこちらを見る。

 後ろをついていく小夜は気分が落ち着かなかった。

「旦那様、お出かけですか?」

 と、声をかけてきた男に、真仁は真面目くさった顔を返した。

「ああ。陽ヶ瀬家に大事な話をしに行くんだ」

「陽ヶ瀬? 何だか分からないですけど、どうぞお気をつけて」

「ありがとう」

 会話を聞いていた人たちの視線は、自然と小夜へ向けられる。これも真仁の戦略のうちなのだろうが、注目されるのは苦手だった。


 やがて二日前にデジャヴを覚えた川辺へ差しかかった。

 幼い頃の自分がそこで遊んでいる幻を見て、思わず小夜は足を止めてしまう。

 すると気づいた真仁が呼んだ。

「どうかしたか、小夜さん」

「あっ、いえ。何でもありません」

 慌てて小夜は真仁の元へと駆け寄る。出かける直前、しのに言葉遣いを注意されたことが脳裏をよぎった。

『未来ではどうだか存じませんが、丁寧な言葉をお使いなさいませ。陽ヶ瀬家の娘になろうというのであれば、なおさら気をつけるべきでございます』

 さっきは「ありません」ではなく「ございません」と言うべきだった。

 この時代の人間として馴染なじむために、小夜は自省じせいし、次こそ丁寧な言葉を使えるように意識した。


 陽ヶ瀬家は園ノ宮家とは比べものにならないほど立派だった。

 屋敷の門構えは格式高く、手入れの行き届いた庭園には緑の鮮やかな木々が静かにたたずんでいる。

 母屋は伝統的な日本家屋に三角屋根の洋館がくっついた、和洋折衷わようせっちゅう住宅になっていた。

 洋風の応接間へ通された小夜は、張りつめた緊張からか、小さく震える手をひざの上で固く握っていた。

 向かいに座る陽ヶ瀬侯爵とその夫人もまた、期待と不安が入りまじった複雑な面持ちで、真仁の言葉を待っている。

「侯爵、奥様。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

 真仁はうやうやしく一礼し、ゆっくりと口を開いた。

「実は、こちらの娘のことでご相談がございます。――長らく行方知れずであった陽ヶ瀬家の御息女ごそくじょ、小夜お嬢様に相違そういないと存じます」

 夫妻は思わず顔を見合わせた。侯爵がわずかにまゆを動かし、低い声で問う。

「何と申されましたか?」

 その目には明確な疑念が見えたが、真仁は小夜へ視線をやった。

「小夜お嬢様、あれを」

「はい」

 小夜は着物の袖からそっと薄桃色のお守りを取り出した。

「元は風呂敷だったそうですが、幼い頃から、彼女がずっと持ち歩いていたものです」

 真仁の説明とともに、小夜はお守りを広げて夫妻へ家紋が見えるようにした。

 堂々とした口ぶりで真仁が言う。

「この意匠、まぎれもなく陽ヶ瀬の家紋ではございませんか?」

 夫人が目を見開いて口元へ手を当て、侯爵は小夜の顔をまじまじと見つめる。

「まさか、本当にあの小夜なのか……?」

 動揺する夫妻へ真仁は冷静に説明をした。

「話を聞いてみたところ、小夜お嬢様は二年前までアメリカで暮らしていたそうです。今から十五年前、屋敷を抜け出して迷子になっていたところを、心優しいアメリカ人が拾い、米国で養女として育てていたのです」

 夫人がとうとう涙をこぼし、侯爵はうなずく。

「日本へ戻ってまいりましたのは、私の知人が彼女を奉公人として引き取ったからでございます。そしてつい最近、彼女のお守りの家紋に気づきました知人が、私の元へ連れてまいったのです」

「ああ、小夜……」

 夫人はすっかり信じきっていたが、侯爵は冷静だった。

「疑うわけではございませんが、私たちの小夜には一つ、忘れられない特徴とくちょうがございます。それは、左耳の裏にあるほくろです」

 真仁が一瞬焦りの表情を見せたが、小夜は落ち着いて返す。

「どうぞ、ご確認ください」

 と、彼らへ見えるように体を横向きにし、指先で左耳を前へたたんで裏を見せる。子どもの頃から何度となく、人から指摘されてきたものだった。

 夫妻がすぐに立ち上がり、こちらへやってきて耳の裏を確認した。

「ああ、やはり小夜だわ! 間違いありません、このほくろは私たちの小夜です!」

「生きていたのか、小夜……」

 夫人はたまらない様子で小夜へ両手を伸ばし、抱きしめた。

「おかえりなさい、小夜。生きていてくれてよかった」

「お母様……っ」

 小夜も喜びのあまり、夫人をそっと抱きしめ返す。

 この人が自分の本当の母親なのだと思うと、無性むしょうなつかしく感じられて胸が熱くなる。幼い頃の記憶が、曖昧ながらも鮮明によみがえってくるようだった。

 侯爵も優しい目をして、小夜の肩や頭をゆっくりとなでた。離れていた時間を惜しむような手つきに、小夜は深い安堵を覚えて目に涙をにじませる。

 まさか本当に自分が、陽ヶ瀬家の娘だったとは思わなかった。しかし、夫妻は小夜を受け入れてくれた。おかえりと言ってくれた。

 しかし、幸福な瞬間は束の間だった。真仁が口を開いたのだ。

「家族の再会を邪魔するようで心苦しいのですが、一つご相談がございます」

 夫妻が小夜から離れて、訝しそうに彼を見る。

「何のご相談でしょう?」

「実は、園ノ宮家で預かっていた数日の間に、うちの真之介が小夜お嬢様と懇意こんいになったのです。昨今流行しているという、自由恋愛でございます」

 夫妻は戸惑った様子で顔を見合わせた。

 真仁は彼らの反応をうかがうように、慎重な態度で続ける。

「私としましては悪い話ではないと考えておりますし、何よりも二人がそれで幸せになれるのなら、背中を押してやりたいところでございます」

 侯爵が小夜を見た。

「小夜、それで本当にいいんだね?」

「はい。わたしは真之介様のおそばにいたいと思っております」

 はっきりと答えた小夜を見て、侯爵はうなずいた。

「分かった。園ノ宮伯爵には、こうして小夜と再会させてくれた恩もある。私たちも二人の自由恋愛を認めましょう」

 ほっとした。これで小夜は真之介と結ばれる。残る問題は彼の許嫁のことだが、それは小夜の知るところではない。

「でも、待ってください。すぐに結婚させるわけにはまいりません。せめて一年、小夜と家族として過ごさせてはもらえませんか?」

 夫人の希望に真仁は笑みを返した。

「もちろんです。十五年もの長い間、離れていたのですから、家族としての時間を取り戻したいと思うのは当然でございます」

「ありがとうございます」

 夫人が丁寧に頭を下げ、侯爵も言う。

「それに、花嫁修業もさせなくてはならない。小夜、すぐにこちらで受け入れる用意を整えるから、もう少しだけ待ってくれないか?」

「はい、もちろんです」

 にこりと笑う小夜へ夫妻も微笑んだ。

 陽ヶ瀬の娘になるという実感を覚えて、小夜は期待と不安に胸をおどらせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る