第18話 責任

 早朝。

 エリックは、冷たい廊下で目を覚ました。泣いたせいで目元は腫れぼったいし、硬い床の上で寝ていたせいで、身体中が強張って痛い。

 それでもなんとか、冷え切った身体を起こす。足を引きずるようにして、レオポルトの待つ部屋へと戻るために、歩き出した。


(このまま顔を出したら、心配させちゃう)


 いずれにせよ、どこかで顔を洗った方がいいだろう。のろのろと歩きつつ、そんなことを考えた。

 こんな時でも考えるのは、レオポルトのことだった。


(色ボケしてるのは、間違いないんだけど)


 情けない限りだ。いつもだったら一も二もなく管理室へ戻って、怒鳴り込んでいただろう。それすらもできないということは、相当、弱っているようだ。

 すんすんと鼻を鳴らしつつ、騎士団の庁舎を出た。外にある水場へと向かって、顔を洗う。贈り物のローブの裾で顔を拭くのは抵抗があったので、シャツの裾で拭った。

 秋の朝は冷える。大きなくしゃみが出た。指先も赤くなって、かじかんでいる。

 その冷たさのおかげで、頭が少し冴えた気がした。


(悲観していても、仕方ないや)


 できることをやるしかない。自分自身にそう言い聞かせつつも、足は竦んだ。エリックは深く息を吐いて、もう一度、怯えを払うように顔を拭う。


(いわゆる、罰が当たったってやつ、なんだろうか)


 エリックがしたことは、胸を張って誇れることではない。その自覚はあった。


(でも先に不正をしたのはあちらだ。それに、あちらの力だけだったらきっと、ここに敷く通信網は不完全だった。獣害で立ち行かなくなっていた……)


 そして、それらは全部言い訳だ。

 エリックは頭を振って、考えるのをやめた。自己弁護は、潔くない。たとえ結果的により良い結果を得られたとしても、不正は不正だ。

 レオポルトとの部屋に戻ると、彼はまだ眠っていた。起こさないように、物音に気をつけて中へ入る。

 ローブを脱いでハンガーへかけていると、衣擦れの音がした。振り向くと、レオポルトが上体を起こしてこちらを見ている。


「どうだった」


 きちんと目の冴えている時の、はっきりした声だ。エリックは言葉に詰まって、動きを止めた。

 言葉を尽くす必要のある報告だ。だけど今、そこまで頭は働かない。


「……通信水晶が、誤作動を起こしていたみたいです。原因は究明中です。詳細については、後ほど報告します」


 当たり障りのない発言で、曖昧に誤魔化した。ふいとそっぽを向いて、クローゼットへローブをしまう。

 レオポルトは返事もせずベッドから降りて、エリックへと歩み寄った。

 その感情の読めない真顔をちらりと見て、エリックは顔を伏せる。昨晩の管理室でのことを思い出した。

 アルベルトからの言葉は、正直に言って、かなり堪えた。


(男に媚び売ってでも、仕事を取ろうとするなんて、らしくない……)


 無性に悲しくて、虚しくて、レオポルトを見ていられない。うつむくエリックに何かを察したのか、レオポルトは「エリック」と名前を呼ぶ。


「必ず、私が助けになる。何か必要なことがあったら、言ってくれ」


 その声の優しさに、エリックの胸は締め付けられるようだった。なんとか頷く。

 レオポルトは視線を下げて、エリックのびしょ濡れの下腹部を指さした。


「それで、そこはどうして濡れているんだ?」

「あ! ああ、顔を洗って、ここで拭ったので」


 ずぼらがバレたようで、恥ずかしい。慌ててシャツを脱ぐエリックを、レオポルトはじっと見つめていた。

 エリックが新しいシャツを選ぶその手を、掌で制した。真新しい、そして比較的厚手のものを、レオポルトが手ずから選ぶ。

 そして無言のまま、エリックに腕を通すよう促した。エリックは焦って、首を横に振る。


「あなたにそんなこと、させられません」

「いい。俺がやりたいんだ」


 恥ずかしいし、申し訳ない。しかしエリックは、レオポルトのされるがままになる。世話されるままに着替えると、レオポルトはエリックの手を引いて、ベッドへと戻った。そして横たわり、エリックを正面から抱き込んだ。


「随分と冷えている。このままでは風邪を引くぞ」

「大丈夫ですよ」


 口では反抗するものの、エリックはその腕から抜け出せなかった。レオポルトはエリックを抱え込み、自分の胸元に閉じ込める。背中を叩かれると、とろんとまぶたが重くなるようだ。


(大事にされてる)


 レオポルトは、エリックを宝物のように扱った。それは嬉しいし、エリックもレオポルトのことを同じように、大事に思っている。

 息を吸って、彼の胸元へと懐いた。あたたかくて、ほっとする。そうしてしばらく、レオポルトに甘えた。彼は黙って、エリックの頭を撫でてくれた。

 身体がすっかり温まった頃、よし、と覚悟を決める。

 彼の心遣いやあたたかさで、エリックの身体に力が戻ってきた。勇気だって湧いてきた。

 なんだってできると、改めて気合を入れる。


「僕、行ってきます」


 そう言って、身体を起こそうとした。しかしその腕や脚は、レオポルトに絡めとられて阻まれる。

 ちょっと、と文句を言いかけたエリックの唇を、レオポルトのそれがふさいだ。

 驚いてうめく声も飲み込むように、レオポルトの口づけは深くなっていく。


「どうしてそんな顔をしている?」


 レオポルトのわずかに上擦った焦り声が、耳元に響く。エリックは「どんな顔ですか」と軽口を叩くが、レオポルトはエリックを離さない。


「泣いたのだろう。何か、よっぽどのことがあったんだろう? それは、俺には言えないことなのか?」


 エリックは「泣いてません」と頑なに首を横に振る。そっとレオポルトを見上げて、後悔した。

 レオポルトは、穏やかに微笑んでいた。しかし目は悲しげに細められて、どこか諦めたような表情をしている。

 だからもう一度、「泣いていない」と嘘は言えなかった。自分の目が赤く腫れているのは事実だ。だけど心配をかけたくなくて、他に方法が思いつかなくて、エリックはうつむく。


「……言えません」


 ただそう言って、レオポルトを抱きしめることしかできない。レオポルトは深く息を吐いて、エリックをきつく抱きしめ返した。エリックは身体を懸命に寄せながら、必死に考える。


(どうしたら、この人の不安を取り除けるだろう。どうしたら、この人を守れるだろう)


 分からなかった。エリックはただレオポルトを抱きしめて、顔中にキスの雨を降らせることしかできない。


「かわいいな、エリック」


 もう嫌と言うほど聞きなれた睦言だ。なのに今日は、それが寂しい響きを持っていた。エリックはレオポルトの肩口に目元を埋めて、ただ抱きしめる。

 この人をひとりきりにさせてはいけないのだと、再び自分を戒めるために。


「……殿下。僕のこと、最後まで、離さないでください」

「もちろん、そうだぞ」


 なんだか他人事みたいな返事だ。エリックはとどめのように、レオポルトの頬に唇を押し当てる。


「僕もあなたのこと、離しませんから。本当ですからね。地獄にまでだって引きずってきます」


 レオポルトが、息をのむ気配がした。ふと手足の力が緩み、エリックはベッドから抜け出す。

 身なりを整えて、再び魔術師のローブを羽織った。さっきよりも格段に、呼吸がしやすくなっている。襟元をしっかり合わせて、杖を持った。


「それじゃ、行ってきます」


 レオポルトを振り返る。彼は茫然とした表情で、エリックを見つめていた。

 かわいいな、と思った。微笑みを残して、エリックは部屋の扉を開ける。そのまま飛び出して、管理室へと向かった。


(やれることをやるしかない。そうでなくちゃいけない)


 エリックは今回、不正を働いた。そしてその罪を償うつもりはない。その不正は、エリックの復讐に、必要なことだったからだ。

 だけどせめてもの責任として、この仕事は、最後までやらなければいけない。

 それが、エリックなりのけじめだ。

 レオポルトの対等なパートナーであるために、自分へ課した条件だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る