第20話 ショパン、別れの曲
「お前、まさか...」
「そう、僕も彼女たちと同じ、人ならざる者さ」
レンの瞳が、完全に金色に変わった。夕闇の中で、その瞳だけが不気味に光っている。
「インキュバス——サキュバスの男性版、というわけか」
俺の推測に、レンが薄く笑う。
「理解が早くて助かるよ。僕の力と協会の力をもってすれば、お前のような雑魚を消すことなんて、所謂赤子の手をひねるようなもの」
「とはいえ、あの美しい二人に恨まれたままでは僕も目覚めが悪い。少し時間をくれてやる。さっさとお別れを言ってくるんだな」
「お前に指図される筋合いはない」
俺が言い返した瞬間——
レンが瞬間移動したかのような速さで間合いを詰めてきた。襟首を掴まれ、そのまま持ち上げられる。
「ぐっ...!」
足が地面から離れる。まるで子供の人形を持ち上げるような、圧倒的な力の差。俺の体重なんて、レンにとっては羽根のようなものなのか...
首が締まり、呼吸が苦しくなる。必死にもがくが、レンの腕はびくともしない。鋼鉄のような強さだった。
「お前に選択権があると思うか?」
冷たい声と共に、俺の体が地面に叩きつけられた。
「がはっ!」
背中から落ちた衝撃で、肺の空気が全て吐き出される。激痛が全身を駆け巡る。砂利が背中に食い込み、視界が一瞬真っ白になった。
咳き込みながら、なんとか上を見上げる。
レンが見下ろしていた。まるで、地面を這う虫けらを見るような目で。
「せいぜい、最後のお別れを言ってくる機会をもらえただけ、僕に感謝しろ」
踵を返し、去っていくレン。
***
翌日の夜、はるかの家。
リビングのテーブルを囲んで、俺とはるかが向かい合って座っている。
「あいつ、協会の刺客だったんだ」
俺の説明に、はるかの顔が青ざめる。
「協会が...とうとう動き出したっちゅうことね」
「インキュバスって言ってた。サキュバスの男版らしい」
はるかが震える手でカップを握る。中の紅茶が、小さく波打っている。
「どぎゃんすればよかと...」
「協会から来た、紗夜先生なら何か知ってるかもしれない」
俺の提案に、はるかの表情が曇る。
「あんまり、紗夜先生とは話したくなか...」
気持ちは分かる。はるかにとって紗夜先生は、ある意味ライバルのような存在だ。でも——
「今は情報が必要だ。好き嫌いを言ってる場合じゃない」
「...分かったとよ」
はるかが渋々頷く。
「みんなのためやけんね...」
***
放課後、誰も使っていない第三音楽室。
埃っぽい空気と、古いピアノの匂いが漂っている。窓から差し込む西日が、舞い上がる埃を照らし出していた。
「神崎レンね...」
紗夜先生が腕を組んで考え込む。
「あの時、彼は私に言ったの。『君たちを連れ戻しに来た』って」
「連れ戻す?」
「ええ。協会は、はるかさんを種子島に戻したがってる。そして私には、本来の任務を全うしろと」
紗夜先生の表情が暗くなる。
「どうすれば、あいつを引き離せますか?」
俺の質問に、紗夜先生は首を振る。
「正面から戦っても勝ち目はないわ。インキュバスの力は、サキュバスより強いと言われてる」
「じゃあ、協会に直談判とか...」
「無理ね。協会は絶対的な存在。逆らえば、それこそ...」
重い沈黙が流れる。
「逃げるっちゅうのは?」
はるかの提案。
「どこまで逃げても、協会の目からは逃れられない」
どんな案を出しても、全て否定される。八方塞がりだった。
しばらくの沈黙の後、紗夜先生が口を開いた。
「こうなったら...」
紗夜先生がはるかを真っ直ぐ見つめる。
「あの時話した...人間になる方法を、今教えましょうか?」
「えっ?」
俺が驚きの声を上げる。
「そんな方法があるのか?」
「ある。でも、それは——」
はるかが拳を握りしめる。
「こうなったら、仕方なか...」
震える声で、決意を口にしようとした、その時——
♪〜〜〜
突然、誰もいないはずのピアノから、美しい旋律が流れ始めた。
ショパンの「別れの曲」。
哀愁を帯びた、切ないメロディー。
振り返ると、いつの間にかレンがピアノの前に座っていた。
優雅な手つきで鍵盤を撫でる。その指先から、まるで魔法のように音が紡がれていく。
「この曲の正式名称は練習曲作品10第3番」
レンが演奏しながら、淡々と語る。
「しかし、日本では1934年のドイツ映画『別れの曲』で使用されたから、この名の方が通りがいい」
レンがゆっくりと振り返る。金色の瞳が、俺たちを捉えていた。
「今の君たちにぴったりのタイトルだね」
不敵な笑みを浮かべるレン。
音楽室の空気が、急激に冷えていく気がした。
【お礼】
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