十話 ハンロ・インガ
『俺は寝るが、すまないがフヴキの方に誰か行ってやってくれないか。』
『…トラウマ?治ってたけど、ヨーヴァさんがきて再発しちゃったのかな…。サキラさん、お願いしていい?僕はこういうの苦手だから。』
『…分かったわ、ちゃんと捕虜と敵、両方注意してよ。』
軽く頷く。問題ない、そもそもあのリヲウ族は昼行性とは思えないほど、死んだように寝ていた。
はっきり言って監視もクソもない。魔物も馬鹿ではない、圧倒的格上という魔力波を感じ取って逃げるだろう。
魔力を抑制して周囲への放出を常に抑えているインガは、その行為特有の変な波長の魔力波を理解している。優れた魔力探知能力を有する危険な魔物であればあるほど、この違和感に気づく。
こっちから奴らの縄張りに入らない限り自分に喧嘩を売る馬鹿な捕食者はまず見たことがない。
敵兵警戒に全集中すれば問題は無いだろう。
そう楽観視しながら明日から灰色の連中に会わなければいけないというクソみたいな現状から目を背ける。
向こうからはフヴキの嗚咽とサキラの優しい話し声、そしてテントの中からはシウヤの寝息が聞こえる。
昼間の暖かい、というか夏の暑い日差しが林冠で遮られ綺麗な緑色が際立つ光景は酷い睡魔に襲われるものだ。
戦争中である事実を忘れるほどの、偽りの平和。それが本当に楽しめる状況であればよかったのだが。
視線を落とせば穏やかな顔のユィンヒが目に入る。最初から思っていたが、やはり彼女は帝国兵のようには見えない。
これまで殺してきた彼らも皆、知る機会があったらこのような姿を見せたのだろうか。わからない、戦場で戦う有機物の殺戮兵器という姿しか知らないのだから。彼らの最期の声は全て雑音と化していたのだからその有機物が人であった実感はいつからだったか消えていた。
インガはその思考を放棄する。戦場という場所は感情を消すのだ。そこにあるのは任務だけ。
自分の倫理観に反する価値観で強引に思考を塗り替える。ここで敵に同情していては支障が出る。
降伏しない帝国兵は皆敵だ、そこには命のやり取り以外の対話は必要ない。
いつも通りに「完璧な兵士」の皮を被り直していると、長い番としての昼は何も起きることなくゆっくりと過ぎていった。
※
目を開けると夕日で空は赤く染まっていた。ユィンヒは目を擦って体を起こす。
「リヲウ族は夜行性だったっけ?」
横で子供のような高い声が抑揚無く言う。体に対して長すぎる刀を腰の背中側に装備したインガは、恐らくずっとあの起立姿勢でいたのだろう。
ユィンヒが起きたことを確認した彼は、一歩こちらに寄ってから座った。丁寧に広げられた彼の袴も無駄が無い姿勢も機械のような無機質な雰囲気を放ち、無意識のうちにこちらも畏まる。
「ま、夜間移動するつもりだったからありがたいかもね。」
興味無さげに細められた彼の目が少し笑っているように見えた気がしたが、それは表情にも言動にも現れない以上確証は持てなかった。
少なくとも彼はそこまで警戒しているわけでは無いようだ。脱刀して力を抜いているインガは他のハイレイ軍第一部隊員の警戒心が感じられない。
まあ、これまでの彼の言動からしてただ肝が座ってて表に出していないだけかもしれないが。
インガは目を閉じて、何やら思考を巡らせているようだ。
いや、やはり警戒されていないらしい。普通は目を閉じないだろう。
ユィンヒは脱力して仮拠点を見回した。
反対側の茂みには長髪の女性が読めない表情でこちらを観察しながら少女に膝枕をしていた。簡易テントからは軽いいびきが聞こえてくる。
静かで落ち着いたその空間は、常に雑談が聞こえてくる帝国小隊の仮拠点とは全く異なった。
「…落ち着いていますね。いつもこうなのですか?」
「ん、そっちは違ったの?」
目を閉じたままインガは尋ねた。
「…ええ、いつも五月蝿かったです。何人殺したか、戦果の競い合い、馬鹿馬鹿しい賭けの結果、そして勝利を疑わない、遊びに来てるような雰囲気。」
思わず声が低くなる。
「…戦果の競い合い、ね。なるほど、兵士らしいね。」
彼は目を開く。どこか怖い雰囲気で彼は続けた。
「積極性…それがいるのかも、ね。ん、気にする必要なかったかも。」
「…」
「ありがと、もう迷わない。」
「…」
返す言葉が出てこない。一体彼は何のことを言っているのだろうか。
あの瞬間の雰囲気は、何だったのだろうか。
何に対して、感謝されたのだろうか。
彼はそれに答えることは無かった。
「話しかけた目的を忘れるとこだった。その血塗れの帝国軍服、捨てた方がいいよ。シウヤ、あ、君と同じくらいの身長の人ね、の着替え貸すから。」
「え、あ、はい…」
許可取ってないよね、そう内心思ったが黙っておいた。
当然だが、テントから服を持って戻ってきたインガの横にはワイェイン語で不満を垂れ流すシウヤがいた。借りることについては渋々了承してくれたが、先に許可取れと文句を言われた。
インガの独断だったのでこちらに言われては困るのだが、そう思いつつも表面上は誠心誠意の謝罪を演じた。
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